沖縄の地域調査研究(もくじ)


今帰仁間切の番所と主村と祭祀
(首里城より運天村番所迄19411才)

運天は今帰仁間切の番所があった場所である。運天に番所が置かれたのは1666年以降のことだと見られる。1666年は今帰仁間切(現在の本部町を含む領域)が二つに分割された年である。分割後の今帰仁間切の番所は運天港へ、もう一つの伊野波(本部)間切の番所は伊野波村に設置されたと見られる。分割前の今帰仁間切の番所はどこだったのか、そのことを知るための作業でもある。

 先に結論めいたことを言うと間切分割前の今帰仁間切の番所は今帰仁村(ムラ)にある今帰仁グスク内か、あるいはグスクに接してあったと見ている。グスク内、あるいは外に番所の建物の礎石などの遺構の確認はまだできていない。今帰仁グスクの外側の郭内に古宇利殿内火神(フイドゥンチ火神)があり、それが地頭代火神の可能性がある。であれば、火神の祠付近に今帰仁間切番所の建物があった可能性がある。グス内の北殿と呼ばれている場所の礎石も気になる。グスク内に番所が置かれた例として知念間切の番所(知念グスク内)と中城間切(中城グスク内)があるが、それは近世になってからのようである。
 調査を進めてきた「間切番所と同村と祭祀」から、間切番所と首里に住む按司や惣地頭が関わる祭祀との関係を整理すると、間切分割以前の番所の位置(村)が見えてきそうである。

 運天に番所が置かれた年代は今のところはっきりしていない。間切分割があった1666年だと見られる。もちろん『琉球国旧記』(1731年)の今帰仁間切の今帰仁駅(番所)は運天邑(村)である。「薩摩藩調製図」(17371750年)でも運天に番所が記されている。『琉球国由来記』(1713年)の按司と惣地頭が関わる祭祀をみると、それは今帰仁グスクでの祭祀と関わっている。今帰仁里主所火神(今帰仁村)と今帰仁城内神アシアゲ(今帰仁村)での麦稲穂祭・大折目(海神祭)・柴指・芋ナイ折目などの祭祀である。

その頃には番所は運天村に置かれているが、按司と惣地頭が関わる祭祀は運天村に組み替えていない。按司と惣地頭は番所のある運天村での祭祀には関わっていない。それは番所が移っても祭祀は変わらないという法則を、ここでも見つけることができる。

 番所が移動しても祭祀はそれまで通り同村で行っている。分割した間切は按司や惣地頭が関わる村や場所に番所があったということになる。そこから今帰仁間切が分割する以前の番所のあった村(ムラ)は今帰仁村(ムラ)で、同村にある今帰仁グスクにあったと言えそうである。今帰仁グスクのどの場所にあったかは、隣接してか、それともグスク内にあったのか結論はこれからである。

番所が移動しても按司や惣地頭が関わる祭祀と村の変更はほとんど見られない(国頭と大宜味間切の分割のみ例外か)。今帰仁間切の運天村もそうであるが、間切番所が今帰仁村から運天村に移るが、按司と惣地頭が関わる祭祀は、そのまま今帰仁村で行われている。『琉球国由来記』(1713年)には番所は運天村に移動しているが。運天村の神アシアゲでの祭祀に参加する役人は掟と百姓、巫・掟神である。因みに運天村の祭祀を管轄するノロは勢理客(シマセンコ)ノロである。首里に住む按司と惣地頭は今帰仁グスクでの祭祀と関わり、運天村とは関わっていない。関わるとすれば脇地頭である。

 運天港に大北墓がある。その墓の建立は乾隆261761)年である。今帰仁グスクの麓のウツリタマイからの移動である。その墓の移葬は今帰仁グスク(村)にあった番所が運天村に移動したことによるかもしれない。ただし、按司と惣地頭の今帰仁グスクでの祭祀の関わりはそのままである。

今帰仁王子 家禄四百石 物成百三十石余
          領地 今帰仁間切作特二十四石余
    譜久山里主 家禄八十石 物成二十六石余
         領地 今帰仁間切作得二十九石余
    

 ▲1666年以降間切の番所が置かれた運天港  ▲運天にある北山監守一族の墓(大北墓)と石碑

【運天の御嶽と神アサギ】

 運天の神アサギはムラウチ集落にある。そこに運天があり、今帰仁間切の番所が置かれた場所である。『琉球国由来記』(1713年)には、上運天村には「上運天之嶽」と「ウケタ嶽」の二つの御嶽がある(二つの御嶽は上運天にあり確認できる)。運天村には御嶽の記載がみられない。両運天が一緒に行っている四月と八月のタキヌウガンを見ると、その時テラガマを拝む。それからすると運天村の御嶽はテラガマのある森と見てよさそうである。また神アサギの香炉の位置は上運天の御嶽ではなく、テラガマの方向に向けて置かれているので間違いない。

 『琉球国由来記』(1713年)の運天村の神アシアゲで行われる年中祭祀は、以下のように記されている。

  麦稲穂祭時、芋神酒六完、肴十五器完(掟・百姓)同大祭時、粟神酒二完、芋神酒六完、
   肴十五器、赤飯二器(掟・百姓)粟三升完、焼酎四合完、肴二斤完(上同。巫・掟神馳走
   也、麦一升、米二升、麦四丸キ(上同。百姓)
   大折目之時、神酒三、芋神六、肴十五器、コバ餅五十本(掟・百姓)粟一升八合、魚二斤、
   焼酎四合(百姓ヨリ、巫・掟神馳走也)柴指之時、粟神酒五、芋神酒六、肴十五器(掟・百姓)
   芋折目之時、粟神酒六、芋神酒六、肴十五器(上同)供之。島センク巫、祭祀也

 運天村に番所が設置されたのは1666年頃と見られる。その年は今帰仁間切が伊野波(本部)間切と今帰仁間切に分割された年である。その時、今帰仁間切は運天村に、伊野波(本部)間切は伊野波村(後に渡久地村へ移動)に置かれたと見られる。『琉球国由来記』(1713年)の頃には運天村に番所が置かれていた。

 運天村での『琉球国由来記』の祭祀を見ると今帰仁間切番所は置かれたが、按司や惣地頭は運天村の祭祀と関わっていない。当初、番所が置かれたのは今帰仁間切(本部間切を含んだ時代)今帰仁村(今帰仁グスク内)だと見ている。番所が今帰仁村(ムラ)にあった時代、今帰仁按司や惣地頭は今帰仁村での祭祀と関わっていた。間切が分割した時、今帰仁按司と惣地頭は今帰仁村での祭祀と関わり、伊野波(本部)間切は当初番所が置かれて伊野波村での祭祀と関わる。伊野波番所は伊野波村から渡久地村に移動するが、本部按司と惣地頭は伊野波村での祭祀がそのまま継承された。運天村に今帰仁間切番所が設置されるが、祭祀はそのまま今帰仁村(今帰仁グスク)で行われた。

 番所が移動しても首里王府と関わる按司や惣地頭の祭祀は、そのまま今帰仁村(ムラ)に引き継がれた。運天村での祭祀は運天掟・同村の百姓・掟神が関わっている。運天村はシマセンコノロ(勢理客ノロ)の管轄である。

 運天の神アサギはムラウチ集落にある。そこは運天番所のあった集落内に位置する。運天は近世初期まで上運天と運天は一つの村であったようである。そのためウイシマ(上の島)とヒチャンシマ(下の島)の呼び方がなされている。村の分離は近世初期なので、ノロ管轄は変わらず、村が分離したのでそれぞれ神アサギを持ち、祭祀が行われる(大正から昭和にかけての字の分離した場合、神アサギを新しく設置することはない。事例として呉我山・越地・渡喜仁)。

 現在の神アサギは瓦屋根の低い軒で香炉はテラガマ(御嶽)に向けて置かれている。神アサギの回りはアサギミャー(広場)となり、近くに掘り込みの井戸(チンジャ)と掟火神の祠がある。

 
      運天村の御嶽はテラガマなり         テラガマの入り口の様子

 
    
運天のムラウチ集落にある神アサギ      神アサギの近くに井戸がある

運天港のコバテイシ、まだ冬から目が覚めないのか。暖かくなったのに緑の葉におわれるのはまだ先か。コバテイシの下は仕上世米や首里王府への税(穀物など)が集積された場所だという。ずっと置かれていた一台の車が片付けられている。コバテイシの左側の直線通りは明治の資料を見ると、そこで馬を走らせたとある。大正5年まで今帰仁間切(村)の番所(役場)があった場所である。

 
  
まだ葉をつけていない運天のコバテイシ          今日の運天港の様子(少し波あり)

【明治の今帰仁間切役場(番所)】

 明治39年に今帰仁間切運天村の今帰仁間切役場を訪れた菊池幽芳は『琉球と為朝』で今帰仁間切役場(番所)について克明に記してある。それと役場(番所)の写真まで。以下に記された文面から、写真は運天の役場(番所)に間違いないと、以前からそう断定してきた。しかし、私の脳裏に断定したものの気がかりが残っていた。

 先日運天のタキヌウガンの時、ふと村の方から「そこにガヂマルの木があって、枝を伝わって海に飛び込んでいたよ」と聞かされた。その時「間違いない」と確信はしたものの、まだ腑に落ちない。それで今朝、他の方にガジマルのことを伺ってきた。「そこの角にガジマルの大木があったよ」と、さりげない答えであった。


「われ等の今宵の宿と定めた今帰仁間切役場は髑髏塚を後に背負った海岸にある。余は随分琉球を歩いて廻ったが、今宵の宿所ほど気に入ったところは無いと思った。前に帯のような入江を抱込み、三方崖で仕切られて居るので、実際浮世の縁の放たれた土地へ来たような心持である。そのまた静かな事と云ったら、無人島へ漂着した場合を思い出させる位だ。

 間切役場は湾の奥、船つきの極めて安全なところに建てられている。為朝の上陸したのもこの辺からであろう。役場の建物は昔の番所をそのまま用いているのも嬉しい。役場の前には一列に大きな福樹が数本、他にまた五本の榕樹が枝を連ねているが、その中三本の榕樹は凄まじい大きさのものだ。琉球にはそこそこ随分巨大な榕樹があるが、こんな立派なものは余り類が無い。一寸この榕樹だけでも見て置く値打ちがあろう。

 三本とも一丈三四尺廻りもあって、その象のような幹がいづれも人の丈ほどのところから、海の方へだけ向けて指を広げてたように分れ、その分れた幹がまた幾個かの太い幹になって、枝から枝を網の目のように交へ、地上から一丈二三尺の空間をはっているので、余り気根は垂れていないが、その密集した葉は四時日の目を遮り、その下優に三百人を座せしむるに足りる。・・・・」

 
  左側の福木のあるところが役場(番所)     明治39年の運天にあった今帰仁役場(番所)

 ・今帰仁村(グスク内?)→運天村(1666年か)→字運天→字仲宗根(大正5年)

  今帰仁間切は明治41年に今帰仁村(ソン)となる。同年運天村(ムラ)は字運天となる。
     間切番所は明治30年に番所から役場と改称せれる。

 
   運天番所と本部間切番所をつなぐ宿道               運天のジブ集落にあるサンケーモー