北山王の時代                    沖縄の地域調査研究(もくじへ


 「北山王の時代」(14世紀~15世紀初頭)

 工事中


2006.07.25)メモ


①北山王の時代(三山鼎立~1416年)

 10年以上遠ざかっていた『明実録』の山北王の記事に目を通してみることに。歴代宝案編集参考資料5に『明実録』の琉球史料(一)として、原文篇、訳文篇、注釈篇が公にされている(財)沖縄県文化振興会公文書管理部史料編集室)ので、大変有り難いことである。感謝するものである。この訳文と注釈を通して、山北三王(怕尼芝・珉・攀安知)の時代を、一歩、二歩、踏み込んでいける。まずは、山北王の記事の全てを拾い上げることからはじめる。

『明実録』に見る北山


 『明実録』に山北王が記されるのは洪武16年(1383)からである。洪武16年の頃、『明実録』に「山王雄長を争いて」とか「琉球の三王互いに争い」とあり、琉球国は三王(山北・中山・南山)が争っていた様子が伺える。三山鼎立時代といわれる所以はそこにあるのであろう。

 
 『明実録』に登場する山北王は、怕尼芝、珉、攀安知の三王である。明国と冊封された時期、琉球国は三山が鼎立しており、すでに山北王怕尼芝の存在が確認される。それ以前から山北王は当然いたであろう。
 山北王怕尼芝は洪武16年(1385)に「駱駝鍍金銀印」を賜っている。掴みところが駱駝(ラクダ)の形の鍍金(メッキ)をした銀の印を賜っている。「山北王之印」あるいは「琉球国山北王之印」とでも彫られていたのであろうか。「山北王之印」の印を賜わり、その印でもって政治を掌ることは何を意味しているのか。それは国(クニ)の体裁を整えようとしたのか、あるいは整えていた可能性がある。

 それと、山北王怕尼芝は衣一襲(一揃いの衣装)・文綺(模様を織り出した絹)・衣服など布や衣装を賜っている。身にまとうものであるが、儀式に衣服をまとって出席するのであるから、そこから当時身分制度が確立していたと見られる。「鈔」は紙幣のようである。紙幣を賜ったことは何を意味しているのだろうか。後に銀が実質的な貨幣になったようである。
 
 中山王や山南王は、明国に胡椒・蘇木・乳香など東南アジアの品々が散見できる。山北王の貢物に胡椒や蘇木などの品々一回も出てこない。また、中山王と南山王に海舟をそれぞれに賜っているが、山北にはあたえていない。すると、山北は東南アジアに出かけての中継貿易の役割はになっていなかった可能性がある。山北王の明国への貢物は、馬と硫黄と方物のみである。そこに三山の違い(力の差)が反映していそうである。勿論、交易の回数に於いても。

 
 『明実録』では山北王に海舟を賜ったことは記されていないが、『球陽』の察度36年(1385)の条をみると、山南王山北王に海船を一隻賜っている。

  攀安知の時代になると「冠帯」や「衣服」などを賜っている。また「国俗を変ずる」とあり、中国風にすることを自ら願っている。そこらは、『球陽』の記事は『明実録』をベースにしているようなので中国と琉球の両方から見る必要がある。

 
親川(羽地)グスクから勘手納港へ向う途中の道路にハブが轢き殺されていた。昨日今日の暖かさだとハブはエサを捕まえるのに活発に移動するでしょう。ハブに打たれないように気をつけましょう。これからの調査には。

 
 親川(羽地)グスクは勘手納港と深い関わりを持つ。中山の尚巴志の連合軍が1416年に今帰仁(北山)グスクを攻め入ったときに勘手納(寒汀那)港に集結したという(『球陽』『中山世譜』)。山原の今帰仁を除いた国頭・羽地・名護の各按司は中山軍に組した(金武按司は中山に組しなかった記載がない)。

 近世になる定物蔵がつくられ羽地間切を主とした近隣の間切の上納物が集積され運ばれた。勘手納港は琉球の四津口の一つで、薩摩への仕上世(シノボセ)米の集積港でもあった。
 現在仲尾次側に漁港としての港があるが、かつての港は羽地内海に面した内海で船を接岸するような桟橋があったわけではない。浅瀬のある海岸が港(津)であった。

   
   


【山北王怕尼芝】(7)

①洪武16年(1383
正月丁未(3日) 
  詔して琉球国中山王察度に鍍金銀印并びに織金文綺・帛・紗・羅凡そ七十二匹を賜う。山南王承察度も亦た
  之の如し。亜蘭匏等は文綺・
・帛を賜うこと差有り。…時に琉球国、三王雄長を争いて相い攻撃す。使者帰
  りて其の故を言う。是に於て亜蘭匏等を遣(や)りて還国せしむるに、并びに遣使した中山王察度に勅した曰く「王、
  滄溟の中に居り、崇き山環(めぐ)れる海に国を為す。事大の礼行わざるとも亦た何をか患(うれ)えんや。

  王能く天を体して民を育て、事大の礼を行う。朕即位してより十有六年、歳ごとに人を遣わして朝貢す。朕、王の
  至誠を嘉し、尚佩監奉御路謙に命じて王の誠礼に報わしむ。何ぞ期せん、王復た遣使し来りて謝す。今内使監丞梁民をして前の奉御路謙と同(とも)に符を齎(もたら)して王に渡金銀印一を賜わしむ。近ごろ使者帰りて言わ
  く、琉球の三王互いに争いて農を廃し民を傷つく、と。
  
  朕甚だ焉(これ)を閔れむ。詩に曰く、天の威を畏(おそ)れ、時(ここ)に于て之を保たん、と。王其れ戦を罷め民
  を息(やす)ましめよ。務めて爾の徳を脩むれば則ち国用永く安からん」。山南王承察度・山北王怕尼芝に論し
  て曰く「上帝生を好めば、寰宇の内に生民衆(おお)し。天、生民の互相に残害するを恐れ、特に聡明なる者を生
  じ之に主たらしむ。
  邇者(ちかごろ)琉球国王察度、事大の誠を堅くし遣使し来りて報ず。而して山南王承察度も亦た人を遣わし使者
  に随い入覲せしむ。其の至誠くを鑑(み)、深く用て嘉納す。近ごろ使者、海中より帰りて言わく、琉球の三王互い
  に争い
農業を廃棄し人命を傷残す、と。
  
  朕之を聞き?憫に勝(た)えず。今遣使し二王に論して之を知らしむ。二王能く朕の意を体し、兵を息め民を養い
  て以て国祚を綿(つら)ぬれば、則ち天必ず之を祐(たす)けん。然らずんば悔ゆるとも及ぶことを無からん」。

②洪武16年(138312月甲申(15日)
  琉球国山北王怕尼芝、其の臣模結習を遣わし方物を貢す。衣一襲を賜う。

③洪武17(1384)正月己亥(1日)
  琉球国中山王察度・山南王承察度・山北王怕尼芝・暹羅斛国王参烈宝毘牙偲哩□録及び雲南・四川・湖広
  の諸蛮夷の酋長、倶に遣使して表を進め方物を貢す。文綺・衣服を賜うこと差有り。

④洪武18年(1385正月丁卯(5日)
  琉球国の朝貢の使者に文綺・鈔錠を賜う。及び駱駝鍍金銀印二を以て山南王承察度・山北王・怕尼芝
  賜う。又中山王察度・山南王承察度に海舟各一を賜う。

⑤洪武21年(1388正月戊子(13) 
  琉球国山北王怕尼芝、其の臣を遣わして方物を貢す。

⑥洪武21年(13889月丁亥(16) 
  琉球国中山王察度・山北王尼怕芝、其の臣甚結致を遣わし、表を上りて天寿聖節を賀を貢す。来使に
  を賜う
ことを差有り。

⑦洪武23(1390)正月庚寅(26) 
  琉球国中山王察度、亜蘭匏等を遣使し表を上りて正旦を賀し二十六匹・硫黄四千斤・胡椒五百斤・蘇木三百斤を進む。王子武寧、五匹、硫黄二千斤・胡椒二百斤・蘇木三百斤を貢す。
  山北王怕尼芝李仲等を遣使し一十匹・硫黄二千斤を貢す。而して中山王遣わす所の通事屋之結なる者、附して胡椒三百斤・乳香十斤を致す。守門せる者験して之を得、以聞すらく、当に其の貨を没入すべし、と。詔して皆之に還す。仍お屋之結等六十人に錠各十錠を賜う。


【山北王珉】(1

①洪武28年(1395)正月丙申(1日)
  是の日、朝鮮国李旦・琉球国山北王珉・貴州宣慰使安的并びに金筑等処の土官、各々方物・馬匹を進む。

【山北王攀安知】12

①洪武29年(1396)正月己巳(10日)
  
琉球国山北王攀安知、其の臣善佳古耶を遣わし、中山王察度、其の臣の典簿程復等を遣わし、各々表を奉り馬及び方物を貢す。詔して来使三十七人に錠を賜う。

②洪武29年(1396)十一月戊寅(24日)
  琉球国山北王攀安知、其の臣善佳古耶等を遣わし、中山王世子武寧、其の臣蔡奇阿敖耶等を遣わし、馬三十七匹及び硫黄等の物を貢す。并びに其の寨官の子麻奢理・誠志魯二人を遣わして太学に入れしむ。
  是れより先、山南王其の姪三五郎□を遣わして太学に入れ、既に三年にして帰省す。是に至り、復た麻奢理等と偕に来りて太学に入るを乞う。詔して之を許し、仍お衣巾・靴韈を賜う。

③洪武30年(1397)二月丙戌(3日)
  琉球国中山王察度、其の臣友賛結致を遣わし、山南王叔汪英紫氏、渥周結致を遣わし、各々馬及び硫黄を貢す。

④洪武30(1397)十二月癸巳(15日)
  琉球国山北王攀安知、恰宜斯耶を遣使し、中山王察度、友賛結致を遣使し、各々表を上(たてまつ)りて馬及び
  硫黄を貢す。


⑤洪武31年(1398)正月(8日)
  琉球国山北王攀安知、その臣を遣わして表を進め馬を貢す。

⑥永楽
元年(1403)三月丙戌(9日)
  琉球国中山王の従子三吾良□等に宴を会同館に于て賜う。・・・琉球国山北王攀安知、善住古耶等を遣使し、表を奉りて朝賀し方物を貢す。鈔及び襲衣・文綺を賜う。善佳古耶、攀安知の言を致し、冠帯衣服を賜いて以て国俗を変ずるを丐(こ)う。上、之を嘉し、礼部に命じて其の国王曁(およ)び倍臣に冠帯を賜う。

⑦永楽2年(1404)三月己未(18日)
  琉球国山北王攀安知、亜都結制等を遣使して方物を貢す。銭・鈔、文綺、綵幣を賜う。

⑧永楽2年(1404)四月壬午(12日)
 
詔して汪応祖を封じて琉球国山南王と為す。応祖は故琉球山南王承察度の従弟なり。承察度は子無く、臨終に応祖に命じて国事を摂らしむ。能く其の国人を撫し、歳々に職責を修む。是に至り隗谷結制等を遣使し来朝して方物を貢す。且つ奏して山北王の例の如く冠帯・衣服を賜わんことを乞う。
  上、吏部尚書蹇義に論して曰く「国は必ず統有り、衆を撫し、且つ旧王の属する所の意なり。宜しく言う所に従いて以て遠人を安んずべし」。遂に遣使して詔を齎して之を封じ、并びに之に冠帯等の物を賜いて其の使いと倶(とも)に還らしむ。

⑨永楽3年(1405)四月丙寅(1日)
  琉球国山北王攀安知、赤佳結制等を遣使して馬及び方物を貢す。賜うに鈔錠・襲衣・幣表裏を以てす。

⑩永楽3年(1405)十二月戊子(26日)
  琉球国中山王武寧、山南王汪応祖、山北王攀安知、西番馬児蔵等の簇、四川・貴州の諸士官、各々人を遣わして方物を貢し、明年の正旦を賀す。

⑪永楽13年(1415)四月丙戌(19日)

  琉球国中山王思紹並びに山北王攀安知、人倶に遣使して馬及び方物を貢す。

⑫永楽13年(1415)六月辛未(6日)
  琉球国中山王思紹・山北王攀安知の使臣辞す。悉く鈔幣を賜う。                                   ▲今帰仁グスク(志慶真郭・主郭、後方の山はクボウヌウタキ)