【羽地間切】
中尾ノロ・・・・・仲尾村・田井等村・川上村・谷田村(トモノカネイノロ)
真喜屋ノロ・・・真喜屋村・中尾次村・(稲嶺村)
屋我ノロ・・・・・屋我村・済井出村・
我部ノロ・・・・・我部村・振慶名村・呉我村・(松田村)
伊差川ノロ・・・伊差川村・我部祖河村・古我知村
伊差川のろ 二〇〇坪位の地所
源河ノロ・・・・・源河村・(瀬洲村)
・真喜屋のろくもい(旧羽地村真喜屋)
ノロ管轄村は真喜屋・仲尾次・(稲嶺)
喜納・親川一門からだす。
社禄の給与額(明治43年) 600円(証券) 11円44銭(現金) 計611円44銭
証明願
私 儀
當村ニ居住目下生存シ且明治十九年三月縣達甲第
十七号ニ抵触セザルモノニ付御証明相成度此段相願候也
沖縄県羽地間切真喜屋村八拾番地平民
明治廿九年一月 社禄受領者 親川タマ
羽地間切地頭代 喜納豊永 殿
明治廿九年一月廿一日 税務係 立按者 南風掟 金城松吉
地頭代 印 主査 印 係 印
廿八年ノロクモイ社禄第二期分証明之義ニ付伺
右ハ当間切真喜屋村ノロクモイ親川タマ外三名ヨリ別紙之通リ証明願出候ニ付左按ヲ以テ可然哉
按
右願書之通創意ナキヲ証明ス
明治廿九年一月廿一日 地頭代
・我部のろくもい
社禄の給与額(明治43年) 300円(証券) 48円36銭(現金) 計348円36銭
【我部ノロ】(名護市我部】
屋我地島に我部村がある。旧羽地間切の村の一つである。そして現在の今帰仁村湧川地域から移動した村である。1736年に今帰仁村の湧川地内から屋我地島にを移動した村(むら)である。移動後、現在地にウタキを設け祭祀を継承している。我部ノロは、我部・呉我・振慶名・松田・桃原村の祭祀を執り行っていた。村移動後もその管轄村の変更はなかった。陸地内での村移動ではなく海を越えた島への移動であるがノロ管轄の村の変更がなかったことに注目している。
ここで注目していきたいのはノロ管轄である。村が移動してもノロ管轄は保っていること。それはノロの収入に影響を及ぼすからであろう。
下の証書は我部ノロが経済的な保障を国から与えられている証である。昭和の13年頃まで保障されている。祭祀に関わる御嶽は、単なる信仰の対象としてだけでなく土地制度を含めた身分保障にも関わる。そのことがあって御嶽の設置や祭祀、さらにノロ管轄の変更がなされなかったと見るべきだろう。
証
羽地間切我部村拾六番地平民
我部ノロクモイ 嶋袋ウシ
明治廿六年度第一期渡
右ハ當社禄仕払期ニ在テ生存シ當間切ニ
現住ノモノナルヲ証明ス
羽地間切 地頭代嶋袋登嘉
明治廿六年八月九日
国頭役所長 笹田征次郎殿
請求書
羽地間切我部村拾六番地平民
我部村ノロクモイ 嶋袋ウシ
右明治廿六年度第一期渡社禄受領致度
候間御証明被成下度此段請求仕候也
右嶋袋ウシ
明治廿六年八月九日
国頭役所長 笹田征次郎殿
証明願
私 儀
當村儀内ニ居住目下生存シ且明治十九年三月縣達甲第
十号ニ抵触セザルモノニ付御証明相成度此段相願候也
沖縄県羽地間切我部村十六番地平民
明治廿九年一月 社禄受領者 嶋袋ウシ
羽地間切地頭代 喜納豊永 殿

▲我部の御嶽(ウタキ) ▲我部ヌルドゥンチ(名護市我部)
.
▲御嶽の中のイビヌメー ▲御嶽の頂上部にあるイベの祠
【屋我ノロ】(名護市饒平名)
・屋我のろくもい
社禄の給与額(明治43年) 200円(証券) 15円40銭(現金) 計215円40銭
(源河のろくもい)
証明願 私儀
當村内ニ居住目下生存シ且明治十九年三月県達甲第十号ニ抵触セザルモノニ付御証明相成度此段相願候也
沖縄県羽地間切饒平名村三十九番地平民
明治廿九年 社禄受領者 玉那覇 マカト
羽地間切地頭代 喜納 豊永殿

▲屋我ヌルドゥンチ(名護市饒平名)

↑
首里の御ミ事
はねしまきりの
屋かのろハ
もとののろのうまか
一人おとうに
たまわり申候
天啓五年四月廿日
・仲尾のろくもい
社禄の給与額(明治43年) 500円(証券) 35円80銭(現金) 計535円80銭
【仲尾ノロ】(名護市仲尾)
この辞令書は羽地村(現在名護市)仲尾の仲尾ノロ家にあった辞令書のようである(『かんてな誌』掲載)。天啓2年は1622年である。同じ頃の辞令書に屋我ノロの辞令書(1625年)がある(「辞令書等古文書調査報告書」掲載)。仲尾ノロ家には明治の資料があり散見したことがある。20年前のことである。それとは別に島袋源七文庫(琉球大学)にも仲尾ノロ関係の資料がある。それらの資料については手元にコピーがないので触れることができない。
ここで仲尾ノロ家の辞令書が気になる。現物にあたろうとしたこともあるが、未だ目にしていない。ここで興味があるのは、仲尾ノロが「大やこもひ」と記されていることである。屋嘉ノロ辞令書は「やかのろハ」(屋嘉ノロ)と村名の屋嘉がついている。仲尾ノロは17世紀には「大のろこもひ」と呼ばれていたのであろうか。
『琉球国由来記』(1713年)では中尾巫と表記される。中尾ノロは羽地間切のノロの中で間切全体のノロを統括している。羽地間切に同村がない。主村は田井等村だったようである。しかし祭祀は仲尾村が要になっている。羽地間切の惣地頭は仲尾村の神アシアゲと池城里主所(火)神、それと池城神アシアゲの祭祀と関わっている。海神祭(ウンジャミ)の時、羽地間切の仲尾ノロはじめ、真喜屋ノロ・屋我ノロ・我部ノロ・トモノカネノロ・原源ノロ・伊指(差)川ノロは仲尾の神アシアゲに集まり祭祀を行っている。羽地間切全部のノロが集まるのは仲尾の神アシアゲである。それからすると辞令書で仲尾ノロが「大のろくもひ」と記されているのは、羽地間切全体をまとめるノロであった、そのような事情があってのことにちがいない。

↑
首里の御ミ事
はねしまきりの
大のろくもひ
もとののろのうまが
一人ひやかなに
たまわり申候
天啓二年十月一日

▲仲尾ヌルドゥンチ跡 ▲ノヌルドゥンチの火神
証明願
私儀
當村内ニ居住目下生存シ且明治十九年三月県達甲第十七号ニ抵触
セザルモノニ付御証明相成度此段相願候也
沖縄県羽地間切仲尾村五拾八番地平民
明治廿九年一月 受領者 大城ナベ
羽地間切地頭代 喜納 豊永 殿
【仲尾のろの役地】(宮城真治ノート、羽地村誌資料 84頁)
我部祖河原一敷、四○○坪、四俵叶
同我祖河原一敷、三五〇坪、四俵叶
呉我ハタグ原 三〇〇坪 二俵
ウーギリ 二〇〇〇坪、十七俵
振慶名ターラ 二〇〇〇坪、三○俵
セールマ 一五〇坪、二俵
西ヌハーヂラ(門天) 八〇俵叶
計 二八〇俵叶
【川上のろ】
一〇〇坪位の地所