2004
          7月の動き                      沖縄の地域調査研究(もくじ)


2004.7.30(金)

 しばらくお休みしました。今日から復帰です。お悔みのお言葉や思い、ありがとうございます。この場をかりて御礼申し上げます。(全く個人的なことですが・・・)

 父は92年の人生を生き抜き、天寿をまっとうしたと思っています。戦前(30年)・戦後(30年)・復帰後の30年の三つの時代を生き抜いたと思っています。ときどき戦前、戦後の「生き字引」としてきました。私がプライベートを放棄した生活を続けてきたので、父は最後をみとってくれるのかどうか気にかけていました。そのこともあって、昨年の10月あたりから、父の体調を見ながらの遠出や仕事でした。最後をみとることはできました。しばらく、この動きもゆるやかな動きとなります。

 「今日は月曜日だな。国頭か?本部か?どこにいくのか?早く行け!」「今日は水曜日か。仕事だな。早く行け!」「今日は早いな。行かなかったのか」の会話が度々。この「動き」に貢献してくれた一人でした。公にしたものに質問したりアドバイスしたりするよき読者の一人でもありました。

 書き込みをしようとしたら「失ったものと得たものの大きさ」を実感しています。感謝。合掌
 
 三時から名護市立源河小学校の先生方が来館。「冷たいところ(古宇利)から来られたので暑いでしょう」の一言からスタート。一時間近くの案内。学校のある源河につないでの話。源河ウェーキなど。なぜ、グスクから中国製の陶磁器が大量に出土するのか。沖縄のグスクは「丘陵地に造られ、丘陵地で終わる」ことなどなど。お疲れさん。

根謝銘グスクと御嶽(ウタキ)
 根謝銘グスクは別名ウイグスクと呼ばれ、『海東諸国紀』(1472年)の琉球国之図で「国頭城」と出てくる。そのため国頭城は根謝銘グスクと想定されたりする。このグスクはグスクと御嶽の関係をしる手掛かりを持っている。グスクが先か御嶽が先かの議論。

 根謝銘グスクは大宜味村字謝名城にあるグスクである。大宜味間切は1673年に国頭間切と羽地間切の一部を分割してできた間切である。間切分割以前の国頭間切(大宜味間切の大半を含む)の拠点となったグスクと見られる。国頭按司の首里への移り住みや間切分割で大宜味間切地内になったり複雑である。根謝銘グスクは大宜味間切内の根謝銘村に位置する(明治36年以降謝名城)。

 杜全体が根謝銘グスク(ウイグスク)である。杜全体を御嶽(ウタキ)と見なすと、根謝銘グスク内にウフグスクとナカグスクの二つのグスクがあるが、それは一つのウタキにイベが二つある御嶽と見た方がよさそうである。ナカグスクとウフグスクはグスクと呼んでいるがそこは御嶽のイベに相当する位置にある。

 杜全体が御嶽(グスク)で、御嶽(グスク)の中に二つのイベがあると考えた方がいいのではないか。そのパターンは今帰仁グスクも同様である。今帰仁グスクを含めて、もう一度整理してみる必要がある。

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   屋嘉比港からみた根謝銘グスク   グスク上り口のウドゥンニーズとトゥンチニーズ

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 グスクの上り口から今帰仁グスク方面をのぞむ     グスク内のウフグスク(イベ)
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  グスク内のナカグスク(イベ)         グスク内にある神アサギ


2004.7.27(火)

(うしまる)
 本来ならこのコーナーは、仲原館長の調査・研究の報告をするところですが、本日は館長に代わって急きょ、私の方でお知らせを申し上げます。

 新聞でお知りになった方も多いことと存じますが、館長のお父上の仲原武一さんが、昨日の朝、お亡くなりになりました。享年92歳でした。

 仲原のお父さんは、警察官でした。とてもやさしい、お巡りさんだったようです。調査に行くと「謝名の仲原さんと言ったら、仲原巡査のとこね~? 昔よくお世話になったよ」という声をよく聞きました。

 またお父さんは牛を養い、畑もやっていらっしゃいました。朝早くから、夜遅くまで、一生懸命働く方でした。80歳過ぎても、牛を飼っていらっしゃいました。

 とても気骨があり、そして礼儀正しい、やさしいお父さんでした。色々な思い出が頭をよぎり、胸が一杯です。

 月曜日の休館日にその日を定められたのも、毎日病院で寄り添っていた息子である館長の仕事を気遣ってのことのようにも思えてなりません。

 仲原のお父さんに心からの感謝を込めつつ、ご冥福をお祈りいたします。
                                           石野 裕子


2004.7.25

 月曜日は休館です。詰めの仕事あり。骨休みはできるかな?!

国頭村辺戸の安須森(アスムイ)
 
安須森はよく知られた御嶽(ウタキ)の一つである。安須森は『中山世鑑』に「国頭に辺戸の安須森、次に今鬼神のカナヒヤブ、次に知念森、斎場嶽、藪薩の浦原、次に玉城アマツヅ、次に久高コバウ嶽、次に首里森、真玉森、次に島々国々の嶽々、森々を造った」とする森の一つである。国頭村辺戸にあり、沖縄本島最北端の辺戸にある森(御嶽)である。この御嶽は辺戸の村(ムラ)の御嶽とは性格を異にしている。琉球国(クニ)レベルの御嶽に村(ムラ)レベルの祭祀が被さった御嶽である。辺戸には集落と関わる御嶽が別にある。ただし『琉球国由来記』(1713年)頃にはレベルの異なる御嶽が混合した形で祭祀が行われている。
 
 『琉球国由来記』(1713年)で辺戸村に、三つの御嶽がある三カ所とも辺戸ノロの管轄である。
   ・シチャラ嶽  神名:スデル御イベ
   ・アフリ嶽    神名:カンナカナノ御イベ
   ・宜野久瀬嶽 神名:カネツ御イベ

 アフリ嶽と宜野久瀬嶽は祭祀の内容から国(クニ)レベルの御嶽で、シチャラ嶽は辺戸村の御嶽であるが大川との関わりでクニレベルの祭祀が被さった形となっている。クニとムラレベルの祭祀の重なりは今帰仁間切の今帰仁グスクやクボウヌ御嶽でも見られる。まだ、明快な史料を手にしていないが、三十三君の一人である今帰仁阿応理屋恵と深く関わっているのではないか。
 
 それは今帰仁阿応理屋恵は北山監守(今帰仁按司)一族の女官であり、山原全体の祭祀を司っていたのではないか。それが監守の首里への引き揚げ(1665年)で今帰仁阿応理屋恵も首里に住むことになる。そのためクニの祭祀を地元のノロが司るようになる。今帰仁阿応理屋恵が首里に居住の時期にまとめられたのが『琉球国由来記』(1713年)である。クニレベルの祭祀を村のノロがとり行っていることが『琉球国由来記』の記載に反映しているにちがいない(詳細は略)。

 アフリ嶽は君真物の出現やウランサン(冷傘)や新神(キミテズリ)の出現などがあり、飛脚をだして首里王府に伝え、迎え入れるのは王宮(首里城)の庭が会場となる。クニの行事として行われた。

 宜野久瀬嶽は毎年正月に首里から役人がきて、
    「首里天加那志美御前、百ガホウノ御為、御子、御スデモノノ御為、
    又島国の作物ノ為、唐・大和・島々浦々之、船往還、百ガホウノアル
    ヤニ、御守メシヨワレ。デヽ御崇仕也」
の祈りを行っている。王に百果報、産まれてくる子のご加護や島や国の五穀豊穣、船の航海安全などの祈願である。『琉球国由来記』の頃には辺戸ノロの祭祀場となっているが村レベルの御嶽とは性格を異にする御嶽としてとらえる必要がある。

 首里王府が辺戸の安須森(アフリ嶽・宜野久瀬嶽)を国の御嶽にしたのは、琉球国開闢にまつわる伝説にあるのであろう。

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     辺戸岬から見た安須森              辺戸の集落から見た安須森

辺戸のシチャラ嶽
 『琉球国由来記』(1713年)ある辺戸村のシチャラ嶽は他の二つの御嶽が国レベルの御嶽に対して村(ムラ)の御嶽である。近くの大川が聞得大君御殿への水を汲む川である。シチャラ御嶽を通って大川にゆく。その近くにイビヌメーと見られる石燈籠や奉寄進の香炉がいくつかあり、五月と十二月の大川の水汲みのとき供えものを捧げて祭祀を行っている。辺戸ノロの崇所で村御嶽の性格と王府の祭祀が重なって行われている。

(工事中)

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  辺戸村の御嶽(シチャラ嶽)           御嶽のイビヌメーだとみられる

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   御嶽の頂上部にあるイベ              辺戸の集落の後方に御嶽がある  


2004.7.24(土)

 
小学6年生総合学習で二グループ来館。一時間ばかり分担の時代のレクチャー。

今帰仁村古宇利島の御嶽(ウタキ)
 
古宇利島は今帰仁村村にある離島である。この島に七森七嶽(ナナムイナナタキがある。『琉球国由来記』(1713年)に出てくる古宇利(郡)島の御嶽は次の三つである。
  ・中 嶽       神名:ナカモリノ御イベ   (現在のナカムイヌ御嶽)
  ・サウ嶽御イベ  (神名不伝)           (現在のソウヌ御嶽)
  ・カマニシ嶽御イベ(神名不伝)         (現在のハマンシヌ御嶽)
 『琉球国由来記』に記載のないのがマーハグチヌ・プトゥキヌメーヌ・ハマンシヌ・マチヂヌの四御嶽である(郡巫の崇所の所に誤記があるのでそこは注意)。御嶽の議論をするとき、どの御嶽かを特定して論を展開する必要がありそう。


             古宇利島の七森七嶽の位置

 島には七森七嶽(ナナムイナナタキ)がある。一島であると同時に一村である。そこに七つの御嶽がある。島の集落の発生と御嶽(ウタキ)との関係がどう位置づけられるのか。本島側の御嶽からするとマクやマキヨの小規模の集落と結びつけて考えられないか。さらに御嶽を担当する神人(神人をだす一門)との関わりでみていくとどうだろうか。かつてはタキヌウガン(旧4月と10月)のとき、島中の人たちが参加したという。

 古宇利島が複数の小集落の統合があり、さらに村の合併の痕跡がある。ただし、近世には一村になっている。村の統合の痕跡は神アサギが二つあったこと。現在の神アサギ(ウイヌアサギ)とヒチャバアサギ(下のアサギ)があること。ウンジャミのときウイヌアサギとヒチャバアサギで同様な所作を行っている。そしてソウヌウタキ付近にアサギマガイの地名があることなど、少なくとも二つの村レベルの集落の合併があったとみられる。

 古宇利島のウタキ(御嶽)と集落、集落を一つにした村(ムラ)との関わりで見ると、どうも島のいくつかの小さな集落(マクやマキヨ規模)から成り立っていた。それが、次第に村としてまとまっていく(あるいは、まとめられた)。その痕跡として七森七嶽のウタキを担当する神人があてがわれているのではないか。集落は村(ムラ)として一つにまとまったのであるが、別々の集団を一つの村にしたとき、それぞれの一門から神人をだし、ウタキを担当する神人として伝えているのかもしれない。その姿は国頭村比地のアサギ森(ウタキ)の中にある数カ所のイベに、各一門が集まる姿とよく似ている。古宇利の七森七嶽は島内に数個の集落の発生があり、それが一門のよりどころとして御嶽をつくり、祭祀に関わる神人の出自と御嶽が結びついている。古宇利島の七森七嶽は、そういった集落の展開と祭祀、さらに神人との関係をしる手掛かりとなりそうである。

 古宇利島の七つの御嶽は杜をなし、その中にイベに相当する岩場がある。岩場の半洞窟や洞窟を利用している。マーハグチは半洞窟部分に石を積み上げ内部に頭蓋骨や人骨がある。形としては墓である。かつては頭蓋骨を拭いたというので墓ではないのかもしれない。ナカムイヌ御嶽だけはコンクリートで祠をつくってある。ソウヌ御嶽のイビは未確認である。 

御嶽(ウタキ)名と概要

現在の御嶽の様子

ナカムイヌ御嶽

 古宇利の集落の中に位置し、中森御嶽の近くに神アサギやフンシヤー、そして南側に内神屋・ヌル屋・ヒジャ屋などの旧家がある。豊年祭や海神祭を行うアサギナーがある。年二回(旧4月と10月)のタキヌウガンだけでなく他のウガンでも拝まれる御嶽である。御嶽と神アサギの間はミャー(庭)となっていて豊年祭やウンジャミが行われる。御嶽の中にイビがあり、そこに祀られている骨は人骨の認識がある。プーチウガンやナカムイヌ御嶽は古宇利子(フンシヤー)の扱いである。下の画像はナカムイヌ御嶽の中にある祠。イベにあたる


マチヂヌ御嶽

 古宇利集落の後方に位置し、年二回(旧4月と10月)のタキヌウガンの時に拝まれる。マチヂのイベ部分は琉球石灰岩がズレ落ち三角の半洞窟状になっている。その内部に石がころがり、手前に香炉(比較的新しい御影石?)が置かれている。『宮城真治資料』によるとヤトバヤの扱いとなっている。拝む方向としては、現集落を背にして拝む形である。一帯は中原遺跡となっていて、集落があった痕跡がある。ヤトウバヤ(恩納ヤー)の担当の御嶽。(画像古宇利掟提供)

 下の画像はマヂヂヌ御嶽のイベにあたる部分。大きな岩の窪みに石がいくつも置かれている。


マ|ハグチヌ御嶽

 最近マーハグチまでの道が開けられた。神人達はタキヌウガンのとき、そこまで来ないで道路でお通しをする。大きな岩の下に石積みがあり、頭蓋骨をみることができる。現在は年二回(旧4月と10月)のタキヌウガンで拝まれるが、根神の一門で正月・四月・七月・十月の年四回拝んでいたよだ。花米や御五水(酒)を供え、白い布を酒でひたし二つの頭蓋骨を拭くこともやっていたという。担当は根神である(マーグスクヤー)。

トゥンガヌ御嶽

 道路から御嶽の中に入り進んで行くと岩がある。その下に線香を立てる石が置かれている。年二回のタキヌウガン(旧4月と10月)の時は道路で線香をたてお通しをする。ノロなど七名の神人が担当するという。


                (画像古宇利掟提供)

ソ|ヌ御嶽

 古宇利島の東側に位置し、御嶽の近くの浜はソーヌ浜と呼ばれる。杜全体が御嶽になっていてイビがあるというが未確認。ウンナヤーは一帯から集落内に移動したという伝承がある。そのためかウンナヤー担当の御嶽だという。タキヌウガン(旧4月と10月)のときは、上の道路からお通しをしている。宮城真治資料ではノロなど七名の神人の担当になっている。ウンナヤーのここからの移動伝承は、御嶽と御嶽担当の神役との関係を示している可能性がある。

プトゥキヌメ|ヌ御嶽

 島の一周線から御嶽に入ると半洞窟の岩屋がある。そこは御嶽のイビがあり線香をたてる。鍾乳洞の石が仏に似ていることに由来するのだろうか。タキヌウガン(旧4月と10月)のとき、神人達はイビまで行ってウガンをする。ノロ担当の御嶽のようである。付近に集落があったかどうかの確認はまだできていない。

ハマンシヌ御嶽

 一帯の地名がハマンシ(浜の石)で、島の西側の浜は石が多いことに由来するようだ。別名ビジュルメーヌ御嶽ともいう。御嶽に入るとイビの奥に小さな洞窟があり、人形の形をしたビジュル(小石:石筍)がいくつもある。ここも年二回(旧4月と10月)のタキヌウガンの時に拝まれる。二、三人の神人が洞窟内で石を持って吉凶を占う。内神の担当のようである。


2004.7.23(金)

 多忙中!
(県教育長会:講演 今帰仁グスクを中心としたあれこれ!)


2004.7.22(木)

 
国頭村比地に二つの御嶽がある。『琉球国由来記』(1713年)の国頭間切比地村に三つの御嶽がある。現在呼ばれている(   )に想定できそうである。
    ・幸地嶽  神名:アカシニヤノ御イベ(現在のイビヌタキ)
    ・キンナ嶽 神名:中森ノ御イベ    (現在の中の宮)
    ・小玉森  神名:アマオレノ御イベ (現在のアサギ森)
    
国頭村比地の御嶽(幸地嶽・キンナ嶽)
 『琉球国由来記』(1713年)で幸地嶽としてあるのは、一帯はウチバルと呼ばれている。ウチバルは河内(こうち)原の「こ」が脱落した呼び方で、カワチに幸地と漢字を充てたのであろう。幸地嶽は河内原にある御嶽ということになる。イビヌウタキと呼ばれている杜全体が幸地御嶽とみることができる。

 現在イビヌウタキと呼ばれている場所に祠があるが幸地御嶽のイビに相当すると考えていい。そしてキンナ嶽は「中の宮」と呼ばれているが、中の宮は『由来記』の神名中森ノ御イベからきたもので、中ノ嶽とも呼ばれている。幸地嶽と中の宮の関係は幸地森全体が御嶽で、イビヌウタキがイビ、そして中の宮がイビヌメー(イベの前)に相当する。今帰仁村今泊のクボウの御嶽の構造とよくにている。村人達は中の宮に集まり、イビへは神人のみ上っていく。イビで祈りをした神人はドラを敲いて下で待機している人たちに合図をしたという。

 中の宮(イビヌメー)の中にある香炉と国頭王子(正秀)の石燈籠に、この御嶽の性格が読み取れそうである。比地村の御嶽(小玉杜)と性格を異にした御嶽である。ここで関心を持っているのは石燈籠の銘や香炉とイビヌメーヌ嶽付近から出土したという鏡や鉦皷などである(『沖縄の古代部落マキョの研究』所収325頁)。按司や王子クラスの御嶽と見てよさそうでる。特に按司や王子などの薩摩や唐旅に関わる航海安全に関わる御嶽とみることができそうである。

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    イビヌタキ(幸地嶽のことか)          中の宮(キンナ嶽・中森のことか)

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   中の宮の中にある10基余の香炉      国頭王子の銘のある燈籠

国頭村比地村の御嶽(小玉森)
 
国頭村比地の小玉森(ウタキ)は興味深くみてきた。アサギムイともいい、『琉球国由来記』の小玉森は「クダの杜(ウタキ)」のことではないか。クダはマクやマキヨ同様、小規模の集落のこと。マは間で広場や空間のこと。するとクダマ(小玉)杜はクダの広場の杜、つまりウタキのことだと解することができる。まさに集落の発生と関わるウタキである。

 これまで調査したウンジャミや神アサギもあるが、ウンジャミのとき、それぞれの一門が赤木や福木の大木の下に香炉を置き、一族がその前に集まり線香をたてる。その風景は比地村は複数の集団からなる村ではないか。マク・マキヨクラスの集団が一つの村を形成し、神人はそれぞれの一族から出してきた姿ではないか。

 神アサギの中に座っている神人達は、一門からだされた供え物がお土産として持ち帰る。それは神人達の報酬である。その姿は、かつての神人たちの報酬の受け取りの場面であったにちがいない。一族一門が繁盛すれば、報酬が多くなる計算である。祈りのときの唱えに「村(ムラ)の繁盛」があるのは神人の報酬につながっていた。
 
 森全体がウタキでウタキの中に一門一族のイビがあり、神アサギもある。周りに旧家とみられる神屋が何軒かある。ウタキの中に家々があり、斜面にもシマンポーヤー・根神屋跡がある。比地の集落ははウタキの内部から斜面にかけてあったのが、次第に麓に移動していったとみられる。集落とウタキが密接に結びついていたことがわかる。集落の発生と村の成立で、神人は一門から出していく形で継承されてきている。
 
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  国頭村比地の小玉森(ウタキ)    ウタキ内にある神アサギ(平成15年)

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    それぞれのイビに一門が集まる         福木や赤木の大木の下に香炉が


2004.7.21(水)

 昨日は大宜味村の根謝銘グスク(別名ウイグスク)と国頭村の比地の二つの御嶽(ウタキ)と最北端の辺戸の村の御嶽と安須森(国クラスの御嶽)までゆく。比地のイビヌタキと中の宮が、村の御嶽というより按司クラスの御嶽の性格を持っているようだ(詳細については別報告)。

 国頭地域の御嶽を踏査していると、村レベルの御嶽と国や按司クラスの御嶽が混在していることに気づく。村(ムラ)の御嶽と国や按司クラスの御嶽と区別して考える必要がありそうである。按司や脇地頭と関わる御嶽は主に航海安全、そして首里に住んでいて役地の祭祀との関わりで御嶽を置いている例がある。それらを理解するために「国頭の歴史」を十分把握する必要がありそう。複雑にしているのは間切の分割や番所の移動や大宜味間切との村の組み換えなど。さらに間切分割で国頭地域のグスク(根謝銘グスク)が国頭間切ではなく大宜味間切の地(さらに村の合併)にあること。そのことがあって惣地頭や按司の領地の拠点が時代によって違っているため、1673年以前・以後なのか、番所はどこにあったのかなど、合わせ見て考える必要がある。

 一言でそうだという答えがないところがなかなか面白い。現場に立ったとき、御嶽の性格がよく見えてくる(ただし、御嶽は一言で何かという発想や視点ではどうだろうか)。中南部の御嶽やグスクを見ていくと、これまでの発想がもろとも崩れるかもしれない。それがまたもっと面白い。
 
集落移動の村と御嶽(ウタキ)羽地間切仲尾村の事例

 仲尾は羽地間切仲尾村で現在名護市の一字である。ここでの「集落移動の村」とは、同村(ムラ)地内で集落部分が移動した村のことである。同村地内で集落が移動したときに、御嶽(ウタキ)はどうしたのかがテーマである。仲尾のウタキはヒチグスクと呼ばれ、同丘陵地の向って右側は親川グスクである。ヒチグスクと親川グスクの間に堀切があり、親川グスクへの神道として使われていた。

 

 仲尾は『琉球国高究帳』(1640年代)に「なかう村」、『琉球国由来記』(1713年)で「中尾村」、「琉球一件帳」(1750年頃)から「仲尾村」と記される。仲尾村の集落移動は「羽地間切肝要日記」にみることができる。道光15年(1835年)「村(集落)の敷地が狭いので勘手納と東兼久に引っ越して家を作った。両兼久の敷地の竿入れをしてみたら百姓持の土地なので村敷(屋敷)にしたいと願い出て認めれた。この時期に勘手納に7家族、東兼久に4家族が引っ越してきた(頭数134人)」。故地は「仲尾古村遺跡」と命名され集落が移動した痕跡を見せる。そこには御嶽(ヒチグスク)や神アサギ、根神屋やノロドゥンチ跡やカーなどが今でも遺っている。

 

 集落は移動したが御嶽(ヒチグスク)は新しく設けることなく、また旧家跡や神アサギは元の場所に置いて集落のみの移動である。距離として約700mばかりである。村内の集落のみの移動の場合、御嶽(ここではグスクと呼んでいる)はもとの場所に置き、神アサギや旧家の火神(ウペーフヤー・ニガミヤー・ヌルヤー)の祠(神屋)を置き、祭祀は故地で行っている。畑やかつての水田は故地に近い場所に広がっていた。土地改良で地形が大きく変わってしまい、ウタキや神アサギなどに、かつての集落跡を確認することしかできない。

 『琉球国由来記』(1713年)に「谷田之嶽 神名:ニヨフモリノ御イベ 中尾村」とあるが、中尾村ではなく谷田村の誤りと思われる。仲尾村の御嶽は由来記に記されていないと見るべきである。『琉球国由来記』の祭祀で注目すべきことは、惣地頭が中尾村の神アシアゲと池城神アシアゲに参加することである。仲尾ノロ管轄内の田井等村からに1700年代に親川村の創設があり、池城神アシアゲは親川村の神アサギ(親川グスク地内)となる。羽地間切の海神祭のとき、中(仲)尾・真喜屋・屋我・我部・トモノカネ・伊指(佐)川・源河の全ノロが仲尾村と池城神アシアゲでの祭祀に参加する。そのとき、惣地頭も両神アシアゲの祭祀に参加する。ここでも羽地間切の按司や親方クラスが祭祀に参加している。グスクの神アサギでの祭祀に仲尾ノロが重要な役目を果たしている。そのことを示すように天啓二年(1622年)の辞令書があり、仲尾ノロは「大のろくもひ」と呼ばれている(『かんてな誌』43頁所収。仲尾ノロに関する明治の史料があるが省略)。

 

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 羽地間切仲尾村のヒチグスク(現名護市)     道光15年ここ勘手納に集落を移動

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 集落のあった半田原に神アサギがある。     故地にある仲尾ヌルドゥンチ跡

 首里乃御ミ事
 はねしまきりの
 大のろくもひ
 一人 もとののろのうまか
     ひやかなに
 たまわり申し候
 天啓二年十月一日

 


2004.7.18

 19日(月)・20日(火)は休館となります。
御嶽踏査や企画展など、あれこれあり。休日が怖くなります。

 
午前中、来客あり。運天がテーマ。中世の研究者なので「源為朝と琉球」が気になっていたのかもれない。勝手に為朝公上陸後、しばらく住み着いたというテラガマ。運天森の為朝公上陸跡之碑と運天集落。今帰仁グスクと関わる百按司墓と大北墓など。上間商店でソバとゼンザイ。その後、乙羽岳と今帰仁グスクまで。今帰仁グスクは先日やった名桜大学の授業の引率できたS講師。

 乙羽岳で古宇利島を眺めていたら、進めなければならない「企画展古宇利」と『古宇利誌』の校正と編集をスタートすることを決意するなり。のんびりいい景色を眺めに行ったのであるが、次の仕事に火をつけるはめになった。そうしないと動きません。早速、企画展古宇利島の展示項目をあげてみた。ご参考まで。特に広島や金沢にいる学芸員実習の学生達は目を通しておくこと。もちろん沖縄にいる学生達もです。ハイ

移動した村と御嶽(ウタキ)
 
「移動村の御嶽(ウタキ)」については、天底(1719年移動)を事例として紹介した。今朝立ち寄った羽地間切呉我村(現在名護市)も移動村の一例である。その呉我村が移動した地で御嶽をどう設置したのか。呉我は村移転200年や250年の記念祭を行い碑を建立している。
 
 
呉我は『琉球国高究帳』(1640年代)では今帰仁間切ごが村と出てくる。1713年の『琉球国由来記』では羽地間切呉我村として登場することから、羽地間切の村となったのは1690年頃だと考えている。現在地への村の移動は1736年であるから呉我山における御嶽と神名である。呉河之嶽 神名:イタオエクチワカ御イベとある。現在の御嶽のイベに同様に刻銘されている。

 1736年に現在の今帰仁村呉我山地内にあった呉我村(この時は、羽地間切の内)が移転した。呉我・振慶名・我部・松田・桃原の五つの村が蔡温の山林政策で移動させられた。それは山林政策だけでなく、呉我は羽地大川下流域の開拓が狙いだったにちがいない。奈佐田川とフアマタガー(旧羽地大川)とが合流する一帯は呉我・古我知・我祖河の田が入り組んであった。呉我の村移動は、そのような未開拓地があったから移動が許されたのである(風水がどうかの前に)。
 
 ここでのテーマは移動した村が御嶽をどうつくったかである。それと御嶽をつくる場合故地に向っているのかどうか。近世の移動村は御嶽をつくり、祭祀を継承している。御嶽の向きは必ずしも故地に向けていない。杜を御嶽とし高いところにイベを設けてある。呉我は麓に神アサギがある。アサギとセットで他の拝所の火神を祭ってある。稲穂が祭ってあった。イビの前に香炉が置かれ、その後方から急な坂の小道が御嶽のイベまでつながっている。村が移動すると新地で御嶽や神アサギをつくり、祭祀をしっかり継承している。因みに呉我は『琉球国由来記』以後、村移動があったが我部ノロの管轄の移動はなかった。

 呉我村は我祖河村や古我知村地内に移転しており、呉我村に前の二か村の墓がある。呉我港と呼ぶところは、古我知港と呼ばれていた。呉我の耕作地(田畑)は集落の後方のウフェーを越えた旧羽地大川流域に広がる。

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 呉我村250年と200年移転の記念碑      呉我の御嶽からみた現在の集落

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  後方の杜が御嶽、中央部が神アサギ           御嶽の頂上部にあるイベ


2004.7.17(土)

 この頃、御嶽に立ち寄って出勤することが続いている。まっすぐ仕事場に向うのであるが、途中御嶽のことが頭を駆け巡り、頭の中を駆け巡った御嶽についつい立ち寄ってくる。今日こそは、まっすぐ・・・と思いつつ。だが、今日は勢理客の御嶽とノロと間切役人のことが次々と・・・。以前はカー(湧泉)だったような。ハー 

勢理客の御嶽(ウタキ)と集落
 
勢理客は「おもろ」で「せりかく」と謡われ、名高いノロを出した村(ムラ)である。御嶽(ウタキ)神アサギ集落をつなぐ軸線をはっきりと見せる村(ムラ)の一つである。御嶽を中心とした集落の成り立ちと村を統括する役人の動きと首里王府、そして祭祀を司るノロを通して王府との関係をしる手掛かりを与えてくれる村である。

 
勢理客の集落の後方にウガミ(御嶽)があり、その前方に神アサギやヌルドゥンチ跡、さらに湧泉(カー)があり、周辺に集落が発達している。さらに下方の方にいくと、かつての水田地帯である。御嶽は個にあるのではなく、そこに住んでいる人や集落との関わりで存在する。御嶽は村を統括したり、そして王府とはノロを要とした祭祀で結びつき、村を統治していく間切役人の任命などで結びついている。その最大の関わりはやはりからの貢租である。

 御嶽の中のイビに二基の香炉が置かれている。「奉寄進 道光□□年八月吉日 親川仁屋」と「奉寄進 同治九年午□□ 上間仁屋」がある。もしかしたら、スムチナ御嶽の香炉の年号と一致しそうである(要確認)。今帰仁按司が上薩のときの旅祈願(航海安全)の香炉なのかもしれない。御嶽での祈願の一つに航海安全があることがしれる。  

 ヌルドゥンチ内にあるワラザンは、ノロへの貢物や出夫などの出納簿や出席簿である。祭祀を介してノロと村人との関わりがしれる。勢理客ノロはシマセンコノロとも呼ばれ、『琉球国由来記』(1713年)では島センク巫と記される。勢理客ノロが管轄する村は勢理客・上運天・運天の三カ村である。ところが、1738年に創設された湧川の祭祀にも関わっている。湧川村は湧川ノロを出しているにも関わらず・・・。それは湧川にあるヒチャヌアサギ(下のアサギ:別名奥間アサギ)と関係する。奥間アサギは一般的な神アサギではなく火神が祭ってあり奥間屋の家跡である。

 その奥間屋は勢理客ノロ(大城家)を出す家である。1736年まで湧川地内に我部村と松田村などの村があった。そこは最初今帰仁間切地内、1690年頃羽地間切へ。1738年に再び今帰仁間切の地となる(間切の方切や村移動、村の新設など複雑に動く)。勢理客ノロが湧川の祭祀の一部に関わるのは奥間神アサギは奥間家跡である。勢理客ノロ家の先祖は今帰仁間切(1690年頃以降羽地間切)我部村出身である。

 羽地間切我部村の時代、羽地間切の役人(南風掟:奥間親雲上)を勤めていたとき、羽地間切の地頭代の立川親雲上が犯罪を起こし流刑にされる事件があった。その責任をとって奥間親雲上も辞め、今帰仁間切勢理客村へ移った。そこで今帰仁間切の首里大屋子となり地頭代まで勤めた。位牌には島スンコノロクモイ(康煕6年:1667)が出ており、ここでもヌンドゥルチ家の男方は何名も間切役人を出している。湧川の奥間神アサギ(奥間家の火神)での祭祀(フプユミとワラビミチ)に勢理客ノロも参加するが、管轄村のノロの役目ではなく一門(奥間家)の神人として、奥間家で行われる祭祀としての参加とみなした方がいい(詳細は別報告)。勢理客ノロは我部の神人と別れて、勢理客・上運天・運天の順序で回っていく。

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  中央部の杜が勢理客のウガミ(御嶽)       ウガミ(御嶽)入口の鳥居

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ウガミ(御嶽)の中のイベ(香炉が二基)  勢理客の神アサギ(ウガミに向って拝む)

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 アサギの側にある勢理客ノロドゥンチ跡    内部にあるワラザン


2004.7.16(木)

 
沖縄の村(ムラ)を見ていくとき、『琉球国由来記』(1713年)の村や神アシアゲや御嶽などの確認をする。それは1700年頃から2000年の約300年近い歳月で、由来記にある村や神アシアゲや祭祀がどう変貌しているかの確認でもある。その中の特に山原の「神アシアゲ」はそのほとんどが今に伝えている。明治から現在まで大きく変貌する中で、300年という歳月で9割以上残っているのは、確固たる史料がなくても、歴史を読み取っていく上で無視できないものがある。仲宗根村が明治41年に字仲宗根なり、小さな集落がマチとして発達していくが、近世から継承されてきた御嶽や神アサギやカーなど祭祀に関わる空間も形として遺し続けている。執り行う神人の継承がほとんどなされることなく消えつつある。

 1700年以前の移り変わりの緩やかな時代ならば、現在まで激動の中の300年で残っているのは、変貌の緩やかな1700年より300年前にはすでにあったのではないか。少なくとも1700年から200年は遡っていいのではないかと考えている。仲松先生も「古層の村」として祭祀や御嶽や神アサギやマキ・マク・マキヨ(小集落)などの視点で見ている。

 『琉球国由来記』(1713年)を利用するのは、その記事に1609年以前の王府の統治の姿が反映していると考えている。仲宗根村の祭祀に中(仲)宗根地頭(脇地頭)が祭祀に出席している。それは、首里に住む役人と村(領村)との関係を示すものである。つまり仲宗根地頭は仲宗根村を「あつかい村」として何がしの貢租を受け取っている関係にあったのであろう。そのために祭祀になると、わざわざ首里から「あつかい村」の祭祀に参加している。

 地頭あるいは脇地頭は地頭地から給与として上納を受けていた。『法式』(1697)で地頭が「あつかい村」に行って迷惑jかけないようにの達(たっし)が出ているようであるが、明治6年調査の『琉球藩雑記』にみると、「領地 今帰仁間切仲宗根村作得四石余」とあり脇地頭仲宗根親雲上は四石余りの作得をもらっている。このように『琉球国由来記』の記事は、歴史を紐解く手掛かりとなる史料でもある。
 
仲宗根のマチと御嶽(ウタキ)
 仲宗根は現在マチとして発達しているが、ウタキ(グシクという)を背にした集落である。明治30年頃大井川に一本の橋が架かったことで、上流部の寒水村にあった質屋や店が仲宗根の前田原に移動し、その後プンジャーマチと発達した。それまでの仲宗根の集落はウタキ(グシクという)を背景にしたムラウチがもとの集落である。ムラウチから分かれたのがターバルの集落である。前田原一帯にマチが発達していくが、ムラウチを中心とした集落、神アサギやシシウドゥンなどの拝所はそのまま継承されている。グシクにはお宮がつくられ、中にイビが祭られている。

 『琉球国由来記』(1713年)に中(仲)宗根村に御嶽はないが神アシアゲはある。祭祀に参加するのは掟・百姓・巫(ノロ)・掟神・中宗根地頭である。中(仲)宗根地頭は脇地頭で基本的に首里居住で祭祀のときにやってきたのであろう。仲宗根の祭祀は玉城巫の管轄である。

 『沖縄島諸祭神祝女類別表』(明治15年頃)に仲宗根村の御嶽を百喜名嶽を村の御嶽としている。玉城村にも百喜名嶽とあることから、スムチナ御嶽をさしている。スムチナ御嶽は村々の御嶽というより玉城・謝名・平敷・仲宗根の四村の御嶽である。明治のこの資料で仲宗根村の御嶽として扱っている(スムチナ御嶽は村の御嶽とは性格が異なる)。(画像は今朝の仲宗根の様子なり)

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後方の緑地の杜が仲宗根のウタキ(グスク)    グスク(お宮)からマチを望む

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   神アサギとシシウドゥン(後方)           お宮(本来は御嶽)  

仲宗根のマチ展開
 
仲宗根のマチの展開を図で説明すると、まずグスク(お宮)の杜(ウタキ)を背に集落が発達する。ムラウチと呼ばれ、古層の村の原型をなしている。近世になるとムラウチから分家筋がターバル一帯に集落を形成する。1700年代へのターバルへの集落の形成は人口の増加と、大井川流域の開拓にあると考えている。1719年本部間切の天底村が今帰仁間切への村移動がある。天底村の集落は台地上への移動であるが、天底の地番が仲宗根と勢理客との間に細長く割り込んでいる。大井川流域の水田開拓と仲宗根のムラウチから分離する形で形成されたターバルと村移動をしてきた天底村の割り込みと時期を同じくしているのではないか。

 
明治30年代に大井川橋の架設がある。山岳から大井川橋までをミーミチ(新道)と呼ばれ、ミーミチ沿いにマチが鍛冶屋や商店などが並んでいった。また、大井川上流部の寒水村にあったマチが、橋の開通で仲宗根の前田原一帯に質屋や市場や魚店などが移動する。ミーミチ沿いから前田原にかけて仲宗根のマチが発達していった。今でもムラウチ・ターバル・ミーミチ・プルマチなどの地名にマチの歴史を読み取ることができる。マチとして展開するが、ムラウチには村の人たちが拠り所としてグスク(御嶽)やお宮など、形に遺せるものは残している。   


2004.7.14(水)
 
 
目まぐるしく動いているため、書き込みできない状態が続いています。それと目を真っ赤にして編集と校正作業にかかっています。今日の山場を越すことができれば、攻めに入ります。攻めに入ると一気にいきます。座っての仕事は性にあいません。

   では、しばらく。とは言っても明日ぐらいまでかな。


2004.7.11

   
(工事中)

創設村と御嶽(ウタキ)創設された湧川村と御嶽
 

 近世から明治36年までに創設された村を対象にしている。創設村もいろいろある。一つの村から移動と同時に二つの村が創設されたり、あるいはいくつかの村を移して、そこに村を新しく創設した村もある。ここでは1736年に呉我・振慶名・我部・松田・桃原の村を羽地間切へ移して、そこに1738年に新しく創設されたのが湧川村である。その頃新設された村は御嶽や神アサギをつくりノロが置いてある。創設村に、なぜ御嶽や神アサギやノロや神人を置く必要あったのか。

 御嶽や神アサギを設けなければならない理由は、土地制度や祭祀そのものが村を統治していく要となっていたことによる。ノロも土地制度で土地の配分があるなど、恩恵をこうむることもある。また祭祀は村人にとって休息日である。そのた