2004年12月の調査記録
地域調査(もくじ)
2004.12..30(木)
今年最後の書き込みとなりました。振り返る余裕がなく、すでに来年の1月、2月、さらに8月に向けての動きへと足を進めています。今年は動きに動いたような気がします。それが自分のペースのような。多分、もう少しで息切れします。ハハハ
名護グスクから名護湾をみることに。グスクと津(港)を考える場所である。名護グスクを要とした名護湾の村々、そして名護間切は東海岸のムラも領域にいれていた。大宜味間切や金武間切もそうであったが、古琉球の時代の間切の領域の区切方は、今の常識では理解しがたい物差しがあるに違いない。そんなことを思いめぐらしながらの名護グスクと名護港ゆきである。
名護漁港までゆく。陸揚げされた魚や貝やタコ、エビなどがズラリと並ぶ。9時からセリが始まる。初めてみるセリ。「1500、1700・・・ナカ」とか。チンブンカンプンなり。しかし、なかなか威勢がよく、セリの様子は最後まで見届けたい気になる。また、行ってみよう。奥の方で魚汁やサシミなどを食べている・・・
12.名護港(名護市港区)
名護湾の一番奥に名護港がある。名護間切東江・城・大兼久に至る海岸を指していた。今では名護漁港あたりをさしているようだ。現在ある名護港は埋立地である。かつての海岸線は砂浜であった。国道58号線が走るあたりは海岸か海中である。
名護グスクが機能していた時代に使われていた津(港)は、恐らく幸地川下流域に近い場所にちがいない。近世では名護湾にある許田の湖辺底が四津口の一つとして仕上世米の積み出しに使われていた。
1853年にペリーの一行の一部が名護湾の測量を行ない、Deep Bay(名護湾)の地図を残している。明治の名護湾の写真をみると砂浜にサバニがあるのでみ、接岸できる桟橋はみられない。城(グスク)にブリグラ(群倉)があったようなので、砂浜の海岸が港としての役割を果たしていたのであろう。
明治40年代になると名護と那覇間を海城丸や辰島丸や運輸丸の三汽船が毎日ように往来していたという。乗客や荷物の運搬など競争が激しいこともあったようだ。名護のマチに会社通りと呼ばれ、マチが栄えていった様子がうかがえる(詳細につて別稿で)。
▲名護グスクから眺めた名護のマチと名護湾

▲名護グスクへの登り道 ▲名護グスク内の神アサギ

▲名護漁港の今朝のセリの様子 ▲海のものが数多く並ぶ

▲漁港でアバサー(針千本)突いて調理する老人。漁港の様子
2004.12..28(火)
12月の荒れた海と津(港)の状況も見ておく必要がある。天気のいい日に回っている港であるが、船持ちや海人にとって天気は命に関わる。天気がいい日だけが港ではないはずだ。風や雨の日などの津(港)の様子も見ておきたかった。「グスクと津(港)」のこともあるが、北風の吹く冬場の様子も見たくて、今朝は親泊のナガナートゥ(長港)とチェーグチ(津屋口)までゆく。
11.親 泊(今帰仁村今泊)
親泊(エードゥマイ、エードゥメー)は今帰仁グスクの麓にあるムラである。親泊のムラ名は船が碇泊することに由来する名称であろう。今帰仁グスクと関わる津(港)の一つである。今帰仁グスクの麓にはナガナートゥ・シバンティーナ・トーシングムイ・トーシンダーなど船と関わる地名が残っている。またチェーグチ(津屋口)があり、それも津(港)口なので船と関わる地名である。
親泊(現在の今泊)沖にリーフが切れた二つのクチ(口)があり、そこから船の出入りをしていたと見られる。大きなクチではないので、そこを通り内側のラグ-ンに入り込むには帆船であれば、船を操る結構な腕を必要としそうだ。そうでなければ座礁ものである。クチを通過した過去の船は主に山原船やサバニなどである。
冬のリーフは白波が荒れ狂っている。足を運ぶのはよそうかと思うほど、雨が降っていた。しかしである。冬場や荒波や雨のある日も津(港)は、それなりの動きをしたはずである。そんなことを思い描くと、やはり足を運んでしまう。
ナガナートゥの砂浜にたつ。すると私の今まで頭で描いていたいくつかの常識がひっくり返ってしまった。左右に突き出た小さな岬に挟まったナガナートゥは、風のある冬場でも波静かである。そこに山原船が碇泊していた話は納得させられる。また、今帰仁グスクから大量に出土した陶磁器などの運び込みも、今朝のナガナートゥを眺めていると何故かうなずく。
さらに今泊の集落に回り、チェーグチ(津屋口)にゆき砂利の浜にたつ。潮は引きに向っているようだ。そこから山手の方に振り向くと、クボウヌ御嶽と今帰仁グスクが見える。そこから今帰仁グスクまで2キロ足らずである。1609年3月27日薩摩軍が船を着け今帰仁グスクに攻め入ったのは親泊海岸からである。200隻であれば、海岸は船で埋め尽くされたように見えたであろう。手元に史料がないので、想像するしかないのであるが・・・。断片的な史料で、思い切った空想の歴史を描くこともおもしろい。

▲ナガナートゥの中央部から西側をみる。 ▲同場所から東側をみる

▲志慶真川の下流域からグスクをみる ▲チェーグチで荷物の積み降ろし?
2004.12..26(日)
月曜日は休館です。28日(火)が御用納めです。職員は出勤しますが、閉館となります。歴史文化センターの展示室は本日で終了です。新年は1月4日(火)から開館となります。
「4人展R(あ~る)」のポスターとチラシは完了。酒井さんと具志堅さんが手伝い。印刷したチラシとポスターは配布します。宣伝しないと。
今朝、雨かなと思いつつ外を眺めると、冬の遅い日の出。「おっおっー晴れているぞ。それ!」である。今日はグスクと関わる津(港)にしようかと迷いつつ車を走らせ到着したのは運天港である。今帰仁村には運天港が二ヶ所にある。一つは、当たり前のように言っている字運天の運天港。歴史的に見てきた運天港である。もう一つは上運天の運天港である。浮田(ウキタ)港と呼んでいる港である。浮田港は大きな動きのあった港である。二つの港は、区別して扱った方がよさそうである。
10.もう一つの運天港(浮田港)(今帰仁村上運天)
今帰仁村に運天港は二つある。歴史的にいう運天港は字運天の港を指している場合が多い。もう一つの運天港は地元では浮田港という。浮田港は上運天にあり、伊是名島(昭和63年)と伊平屋島(平成2年)をつなぐフェリーの発着港となっている。近世は伊平屋(伊是名)島と本島をつなぐ航路は字運天の運天港であった(詳細については運天港で触れる)。
この浮田港は運天港と表裏一体の役割を担っている。1742年大島に漂着した唐船が修理のために運天港に向う途中伊平屋島の具志川島の干瀬に座礁し破損する。伊平屋島から馬濫船二艘で唐人47人と荷物を運天へ回航。大島に漂着した6人は名護間切の湖辺底へ。
唐人は運天に囲われてしまうのであるが、大和人方・大和横目・問役などは上運天村で宿をとり、首里王府役人に指示を出している。この唐人漂着の首里王府の対応が浮田港(上運天村)を通してみえてくる。蔡温もこの事件処理でやってきて宿は上運天村にとっている。唐船・仕立船・大和船・馬濫船・楷船・はき船・挽舟・宝島船・伝間(馬)船・飛船などの船が出てくる。
「1742年の「漂着唐人滞在中日記」の出来事は、運天港と浮田港が果たしていた役割が知れる。また、いろいろな呼称の船が登場してくる。津(港)や船を通した近世の琉球国の姿を描くことができそうである(詳細については改めてまとめる)。

▲現在伊是名・伊平屋へのフェリーの発着港 ▲後方の杜はウキタ御嶽
2004.12..25(金)
東京からの来客があり案内をする。20年ぶりの来沖らしい。沖縄に関心があり、また反応のある方を案内するのは時間を忘れてしまうほど面白い。時々、無関心で無反応の方々を義務的に案内をすることがある。その時は・・・。
1月12日からスタートする「特別展」の準備にかかる。 「4人展R(あ~る)」である。そのR(あ~る)が何かは、私もまだわからないのであ~る。お楽しみだ~る。(ハハハ) 明日にはポスターとチラシの印刷にはいる。
津(港)の調査がしばらく続きそう。史料の読み込みはいつでもできるので、今は現場に足を運ぶことを第一にしている。そこから見えてくるものを、まず記録することから。明日はどこだろうか。朝にならないとわかりません。今日は、大川橋の橋詰に車をおき大川橋を徒歩でゆき、橋の最高部から羽地漁港を見下ろしてみた(今朝の羽地漁港)。
9.仲尾次魚港(名護市仲尾次)
仲尾次はもと中城である。羽地大川の河筋は仲尾次側に開鑿し向けられた。その河口に仲尾次漁港が整備されている。羽地の漁港は大正11年に設立している。数戸が半農半漁で細々と営んでいた。河口に竹を編みこんだパジヤーをたてて潮の干満を利用して魚を捕獲したり、またヤンダーという地曳き網での漁が行なわれていた。
橋が架かるまでは仲尾次と屋我地島の饒平名とを結ぶ渡し舟が往来していた。屋我地や大宜味から仲尾次に人がやってきた。写真屋・本屋・質屋・鍛冶屋・酒造所・ソバ屋・旅館・断髪屋などの店が並んでいた。病院も。屋我地の塩はワタサーで仲尾次に運び、そこから馬車で名護のマチまで運ばれたという。
『船税及焼酎税書類』(『沖縄県史』21巻、明治27年か)がある。「焼酎製造営業人検査及び諸津巡視」(明治27年)に勘手納港があり、「本港ハ羽地間切仲尾次、仲尾ノ両村ニ跨ル港湾ヲ惣称ス」とある。羽地間切全体の数値を出しているが、仲尾次村のみを拾ってみると、焼酎販売者3人、刳舟14艘持っているにすぎない。
船の出港、入港は那覇港や泊港、そして名護間切や大宜味間切を航行する船もあるが僅かである。陸揚げあした品物は焼酎・素麺・茶・米・昆布・大豆・瓦・樽・板・石油・炭などである。輸出品は薪木・松丸木・藍・米・砂糖・海参(いりこ)・壷・炭・桃皮などである。

▲羽地漁港の様子。島はジャルーマ島 ▲遊覧船のかんてな丸が碇泊

▲大川橋からみた船揚場と仲尾次の集落 ▲網にかかった魚をはずす
2004.12..24(木)
23日午前中、名護から大宜味村塩屋までゆく。塩屋の集落は砂洲(兼久)に発達している。その先に塩屋小学校があり、そこは大宜味間切の番所があった場所でもある。塩屋に番所が置かれた時期ははっきりしないが、『琉球国旧記』(1731年)に「大宜味駅(在大宜味邑」とあるので、その後に塩屋村に番所が置かれたとみてよさそう。塩屋番所(役場)は明治44年に字大宜味に移転する。
渡し舟を出した渡野喜屋(現在白浜)側に立つ。浜に一本の釣竿が立ててあった。しばらくすると釣竿の主が戻ってきた。すぐ、近くの人だとわかった。声をかけてみた。
「今日は釣れますか?」
「どうかね。投げてみないとわからんな」
「ここ渡野喜屋(トノキヤ)ですよね。ここから渡し舟が出ていたのですか?」
「戦前はな。あの宮城島につり橋が架かっていて、そこから塩屋にワタサーを出し よったな」
「ここからのワタサーはなかったのですか?」
「それは、きっとその前の時代のことじゃないかな!」
8.塩屋港(大宜味村塩屋】
1673年に大宜味間切(1665年当初は田港間切)は創設される。田港間切時代の番所は田港村、大宜味間切と改称された時には大宜味村(ムラ)に、さらに乾隆年間の絵図には塩屋村に番所が置かれていたという。おそらく番所が移動するたびに、港も移動したにちがいない。塩屋に番所があった時代は塩屋湾に面して港が置かれていたのであろう。明治44年以前は長く塩屋に番所(役場)が置かれ、番所の前(塩屋湾)が港として機能していたのであろう。
1853年12月25日ペリー提督が率いる三隻のひとつプリマス号の一行が塩屋湾にやってきている。『大宜味村史』(通史)(84-85頁)に次のように記してある。(SHAH BAYの地図を作成してある)12月30日に塩屋湾を引き揚げている。
「塩屋村の大川浜に着船した調査隊の一行は、早速テントを張って宿泊し、所定の調査活動に
にのり出した。一行の調査は、主として塩屋湾の地質調査と測量、動植物の採集にむけられた」
「滞在中一行は塩屋村の人家三ヶ所から大根三斤、代々九年母十粒、仙本半斤等を押収しその
代金を米ドル銀貨で支払ったとされる。更に一行は、26日四ツ時分に、伝馬一艘に士官一人、水
夫十人が乗りこみ大川浜からすぐ向いのサバ崎に着岸し、測量のためであったろうか、小旗一本
を立て帰ったと記されている」
と。『ペリー提督遠征記』の第一巻中「同探検隊の士官たちによる航海資料」(一部抜粋:上間正春訳 なきじん研究2所収)で塩屋湾(Shah Bay)に数日滞在していた理由は、嵐が吹くまくり湾がからでることができなかったのである。
「Whiting大尉は言う。「ここは陸に囲まれた一面水域であるが、入口正面にある大きなリーフが
大型の船の近づくのを妨げ、小舟が度々出入りするのみである。しかしながら一旦中に入ると、
水深八~十二尋の深さになる。海底はやわらかな泥土で平坦である。最初塩屋湾に入った時、
晩方で天候が険悪の様相を呈していた。翌朝になると北方から嵐が吹くまくり、それが数日続い
た。それでボートがOfookah(塩屋の突端)の外に出るのが不可能になった。その間に我々は湾
内の調査を全部おえた。そして、逗留の最後の日になって初めて出口を調べることができた。残
念なことに出入り口のリーフは生っ吃水の深いすべての船にとって邪魔になることがわかった。
塩屋湾沿岸では鉄鋼・炭鉱・硫黄が見つかった。ここで私がみた石炭は、質が劣悪で土や砂利
が混じっていたが、掘れば良質の石炭が見つかるかもしれない」
明治14年『上杉県令巡回日誌』から塩屋湾の様子が伺える。
「・・・水を隔て、宮城島あり。島中小村落アリ。・・・(略)・・・午後一時五十分、渡舟岸ニ達ス。
即チ大宜味間切番所ナリ。・・・(略)・・・海ヲ隔テ、宮城島ニ対ス。山原船五艘碇泊ス・・・」
ここでは省くが、塩屋湾(港)に関わる史料から船や津口手形などについて知ることができる。

▲屋古あたりから塩屋方面をのぞむ ▲ハーミンゾー(丘)からみた塩屋の集落

▲鳥居の奥の祠に塩炊きに使われた石が置かれている。

▲田港間切時代に番所・港が置かれた? ▲渡野喜屋(白浜)から塩屋をのぞむ
2004.12..22(水)
23日(木)は休館日です。しっかり休日しましょう。年末の大掃除かな?!
今年も午前中山形県酒田市の中学生達(36名)がやってきた。今帰仁グスクと歴史文化センターを案内。歴史の異なる異文化の土地にやってきていることもあるが、感動する姿が見られない。違和感の方が先にあるのかもしれない。天気がいいので、海を見て、空をみて午後からは楽しんでいくでしょう。最近、無反応の覇気のない中学生が増えている感じがしてならない。年のせいでしょうかね。

7.炬 港(今帰仁村仲宗根)
炬港と書いてテイミナトやテーミナトと呼ぶ。なかなか読めない字のようだ。炬港は今帰仁村の仲宗根を流れる大井川の下流域にある。炬港と呼ばれる前は仲宗根湊と言われていたようだ。
炬港は大井川の下流域にある港である。今では全くと言っていいほど港らしくない風景である。漁港になっているわけでもない。しかし、そこに立ったとき、明治までの港の多くが、炬港ような港が当たり前の港だったにちがいない。大井川の淡水が流れ込むリーフは珊瑚が成長せずクチ(口)になり、そこが舟の出入り口になる。
今朝の炬港は潮が満ちていた。干潮時には干潟となり、反対側に歩いて渡ることができる。大正の頃まで、汽船はもっと下流に碇泊し、小舟に荷物を積みかえた。小舟は満潮時にあわせて大井川を遡ってゆく。その行き着く所が寒水(パーマ:浜)である。パーマは明治30年代までマチがあった場所である。そのマチは仲宗根に移ったため、かつてマチがあった場所はフルマチ(古町)と呼ばれている。パーマにマチがあったのは、汽船が出て間もない頃の様子である。
山原船が往き来していた時代。対岸の崎山に港原の小字があり、その地名から、かつて港であったことが伺える。また、崎山の港原に黒糖や穀物を集積する倉庫があったと聞く。

▲大井川下流域の炬港 ▲下流域の炬港から大井川をみる

▲対岸のこのようなキノコ岩はハキジ石と呼ばれ船のロープを結びつけた岩だという。
2004.12..21(火)
渡久地港周辺を歩いてみた。港の匂いのするマチである。港を歩いていると、港や船や民家などの建物が近代化していく中で、変わらず残っている風景がある。その一つに明治の写真にみられる杜があり、公園の中に今でも残されている。杜の上部に昭和二年竣工の小さな祠があり。また杜の麓に半洞窟になった場所があり「海神宮」とある。現在の港とは別に満名川沿いは近世大きな入江となっている。(入江については改めて書く予定)
渡久地村(現在は本部町渡久地)は『琉球国高究帳』(17世紀中頃)に登場せず、『琉球国由来記』(1713年)には渡久地村と登場してくる。隣接する村に具志川村があり、具志川村は後に村名が消えていく。渡久地村は具志川村から分離したため『琉球国由来記』(1713年)当時は神アサギを持たず、具志川ノロ管轄の村だった。ところが近世末になると具志川村は渡久地村と浜元村に分かれ具志川村は消えてしまう。そのため神アサギは分離した渡久地村と浜元村のそれぞれつくられる。
6.渡久地港(本部町)(以前「まとめ」たような!)
渡久地港のある場所は、かつての渡久地村と辺名地村の谷茶にまたがっている。渡久地港の主要部は谷茶で昭和19年に辺名地から分区した字である。渡久地港一帯は明治以降、マチ的景観を持とマチとして発展してきたところである。マチの発展は渡久地港と深い関わりがある。
沖縄本島北部の本部半島西海岸、満名川の河口に位置する地方港湾である。方言ではトゥグチミナトゥといい、南岸に本部町の中心地渡久地のマチがある。湾口広く、また奥行も約1kmと深く、北と南の丘陵で風を防ぐ良港をなし、古くから中国や薩摩を往来する避難港として利用された。近世にも沖縄本島北部の各地域ならびに離島と那覇を結ぶ航路の中継地点として機能してきた。記録に「渡久地は古来より山原船の停泊地であり、近年汽船の回航や石油発動船の往来が頻繁である。ここより伊江島伊平屋行きの船便がある。渡久地は東の方の満名川流域の低地として、離れた伊野波の平地に連なり、後方は地勢が急で辺名地を負い、西側の港の外には瀬底、水納の二つの島と伊江島が横たわって、あたかも内海のごとき景観で、夜景が最も美しい」(『沖縄県国頭郡志』 410頁)とある。
1853(咸豊3)年にペリー提督の一行は瀬底から浜崎に移動し、海岸の調査をしながら浜崎の海岸にテントを張り、さらに渡久地港まで足を伸ばし鶏や土瓶をかっぱらっている。卵や薪、唐辛子・さつま芋などは中国の銅銭で調達している。その後一行は伊江島、今帰仁へと向かっていった。
渡久地には本部間切創立(1666年)以来間切番所(役場)が置かれ、行政の中心となり、昭和20年に役場は現在地に移動した。明治14年11月の『上杉巡回日誌』に「帆檣林立シ」との記述が見え、港内は山原船でにぎわっていた情景が記されている。その後も名護に次ぐ沖縄本島北部第二の港として栄え、那覇・名護・伊江島などとの間にも航路が開設された。農水産物・生活用品などの移出入で活気をおび、発動機船の導入によりカツオ漁業も盛んになった。『沖縄県国頭郡志』に「本部第一の鰹節産地にして毎年三万斤内外を出す」とあるほど、かつてはカツオをめぐって港が賑わっていた。昭和40年代頃まで、港を中心とした市場が栄えていたが、その後大型店舗などに押されさびれていく。
河口港のため流入土砂の堆積が著しく、船舶の大型化に伴い浚渫が必要となり、昭和7年から同9年にかけて南北防波堤・物揚場・泊地浚渫・埋め立てなどの工事がなされた。完成後は北部随一の良港として、生活必需品の移入など、地域の産業経済の発展に大きく寄与した。同時に奄美大島(鹿児島県)と結ぶ航路船舶の寄港、鹿児島・宮崎方面の漁船の給水・停泊地としても利用され、暴風時には避難船が数多く入港した。
第二次対戦中は日本軍の伊江島飛行場造営のため徴用労務の輸送に使用された。戦時中は貯蔵してあった輸送用燃料弾薬庫に被弾し、渡久地周辺の市街地は全戸焼失の被害を受けた。戦後の一時期、米軍の駐屯地として利用されたが、昭和26年これらの施設を琉球造船所が引き継ぎ、造船・機関修理を行った。昭和32年11月19日琉球政府により重要港湾に指定され港湾管理者は本部町となる。同38年物揚場、同40年泊地が完成。昭和47年 5月12日港湾区域の変更とともに港湾管理は本部町から琉球政府に移管され、同年5月15日本土復帰に伴い沖縄県管理の地方港湾に指定された。
昭和50年沖縄国際海洋博覧会の本部町開催に伴い、渡久地港エキスポ地区と渡久地新港(現本部港)が新設され、渡久地新港が北部離島への定期連絡船の基地港になったため、現在は水納島定期連絡船(みんな丸、19t、1日2便)・漁船・巡視船などの利用に供され、また、荒天時には小型船の避難地となっている。
港湾施設の現状は、エキスポ港は沖縄国際海洋博覧会の際に、観光船の入港やレジャーボートの収容、水上ショーの会場として渡久地港の港湾区域内に整備された施設である。現在はグラスボートなどの小型船が利用するほか、BG財団の青少年海洋センターが青少年のための海洋スポーツの訓練場として利用している。
本部間切渡久地村渡久地港は、国頭地方各村より那覇に往来の船舶(主として薪炭及び用材を運ぶ)、必ず此湾に入り風定るを待って抜錨す。故に小市街の体を為し、一、二の密売婦もあると云う。
湾の西北に大小二島あり。瀬底島は大にして水納島は小なり。皆本間切に属す(『南島探険』2 笹森儀助 155頁)。

▲港が発達させた渡久地のマチ ▲渡久地港の様子

▲かつての造船所近くにある「海神宮」の杜 ▲「海神宮」への上り口の鳥居
2004.12..19(日)
湖辺底港は許田の自動車道(高速)への入口近くにある港である。「ここが湖辺底港だな」と思いつつなかなか足を運ぶことがない。なぜ、湖辺底港が四津口の一つなのだろうかと納得いかずにいる。ただ、運天港の運天集落にしろ勘手納港のある仲尾集落とも港の周辺は森で囲まれいる。四辺山に囲まれているとの表現があるので、津口に適した地形をなしているのであろう。
5.湖辺底港(名護市)
名護市の湖辺底港をゆく。湖辺底(コヘンゾコ)港は近世の琉球国の四津口(那覇・運天・勘手納・湖辺底)の一つである。名護市許田にあにあり、名護湾に口を開いた小さな港である。クヒンゾコと呼ばれているようでクヒンは小瓶で、旧記の瓶底はそれに由来するという(『南島風土記』405-406頁:東恩納寛惇著)。港の後部を走るのは許田の自動車道の入り口。この港で蔡温は「泛許田湖」(許田湖に泛ぶ」の漢詩を詠んでいる。
湖辺底港は『名護六百年史』(133-134頁:比嘉宇太郎著)に述べられているので紹介する。
「湖辺底の津口では、中頭の美里から名護、金武、恩納、久志の五カ間切の収納が行なわれ
た。この薩摩への上納を仕上世米(シノボセマイ)とい、進貢事務を湖辺底払といっている。名護間
切の湖辺底払の高は米にして約四十石(百六十俵)、その他オキヌ(染料)など上木物に砂糖
があった・・・
湖辺底の津口は四辺山を繞らし港内水深深く、嵐の中でも波涛が、起らないので現今でも避
難所として利用され、沿岸の小型船舶や漁船などの溜まり場になっている。湖辺底は名の通り瓶
(クヒン)の底のように、陸岸から急斜して深水に落ち込んでいる。・・・往時の馬濫船では接岸荷
役も可能であり、自然港ではあるが最も安全で便利な良津とされた」

▲名護湾に口を開けた小さな港 ▲防波堤から港をみる

▲舟揚場に干してある網 ▲朝から小舟が出入りしている
2004.12.18(土)
名護湾を左手に本部半島を回ってみた。山原船が名護湾から泊港や那覇港にどのように航行したのか。山原から泊港や那覇港へ、逆に泊港と那覇港から山原に向かう山原船が陸上からどう見えたのだろうか。
瀬底島と本島側をつなぐ健堅側の渡し場の確認のため瀬底大橋の橋詰に車を止め海岸におりてみた。少し行くと海を眺めている老人が立っていた。かつての「渡し場」を訪ねると、
「ここではないな。浜崎にな、漁港があるよ。そこ」
「潮の流れは速いですか?」
「おお、はやいよ。潮が引くときはあっちからあっちへ。満つときは反対」
「ありがとうございました」
漁港まで行ってみないことには。「漁港関係者以外立入り禁止」の看板がかかっている。見る子供たちが釣りしているので港まで進む。禁止とあるが、入いてよさそうである。漁港には漁師達が天気や漁獲についてのゆんたくをしている。
「今日は漁にでるのですか?」
「天気がよすぎてなあ。午後からだな」
「ここが瀬底島への渡し場だったところですか?」
「そうだよ。でもな、そんなではなく浜だった。舟艇が浜に突っ込んで
接岸したのだよ」(舟艇は戦後)
「ワタサー人は、浜崎の人でした?」
「んん~ん。いや、シークンチュ(瀬底の人)だったな」
4.シークタナカ(本部町瀬底島~健堅の浜崎)
今では瀬底島と健堅との間に瀬底大橋が架かっている(開通昭和60年。退船)。橋が架かるまでは瀬底島のアンチ浜と健堅の浜崎との間はワタサー(渡し舟)が航行していた。そこをシークタナカ(瀬底二中)という。浜崎の方は現在漁港となり、アンチ浜は瀬底大橋の瀬底島よりの橋詰の下の方にあり、かつて使っていた桟橋がまだ残り、釣り人たちの釣り場に使われている。以前に使った桟橋の一部が波にさらされている。
渡し舟はタタナーと呼ばれ、サバニより僅かに大きく板づくりである。前方に帆がたてられるようになっていた。風のあるときは帆を使い、風がないときはゥエーク(櫂櫓)で漕ぐ。潮の流れが速いので、目的地に到着するには舵取りは要領がいるようだ。とんでもないところに着くことも。島からの甘藷や野菜、ときには牛や馬などを運び、浜崎の本島側からは米や酒や日常雑貨など。旱魃の時には水も運んだという。
1794年(乾隆59)に国頭間切安田村に朝鮮人が乗った船が漂着。地船(間切の船)で泊港に
送る途中(本部半島回り)瀬底二仲(シークタナカ)に碇泊。シークタナカに碇泊していたが潮
流が速いので小舟に引かせて渡久地港へ避難。風向きがよくなったので出港。
1844年接貢船が帰帆のとき、洋上風が強く那覇港に直接入港することができず、瀬底二仲の
海上に停泊。本部間切だけでなく北谷・読谷山・浦添・宜野湾・真和志・小禄・豊見城・兼城など
の間切から小舟を出して接貢船を引いて那覇港へ。読谷山間切渡慶次村、座喜味村、浦添間
切城間村の沖に停泊しながら那覇港へ。スムーズに那覇港に辿りついたわけではなかった。
1853年ペリー提督が率いた艦隊がやってきた。12月18日アメリカの水兵や水夫が浜崎から瀬
底島に二艘のボートを出し、15日に立てた旗をとり、別の旗を立てて浜元村に向かう。


▲かつては名護湾に山原船が(名護湾) ▲本部半島の先端から那覇方面を見る

▲瀬底島との渡し場(現在は漁港) ▲漁港近くに龍宮の拝所あり

▲瀬底島の渡し場の桟橋 ▲古い桟橋跡?浜番屋があった
2004.12..17(金)
睡眠中にあれこれ考えているようだ。出勤途中、自然と晩に思い描いていた場所に足が向く。今朝は運天港である。
運天港のかつての海岸線はどこだろうか。
一本の大木のコバテイシは300年の年輪を重ねているだろうか。
ならば近世から運天港を眺めてきたことになる。
番所の石垣は護岸に使われたとか。
明治の末に海軍が使っていた水タンクがあったとか。
番所跡は福木のあるあたり。
史料に馬場が出てくるが、この通りか。
山原船が何艘か浮かんでいた・・・
現在のコンクリートで固められた運天港に、過去の痕跡が一つでも見い出すことができないか。対岸のサンタキには1846年に亡くなったフランス人二人の墓(オランダ墓)がある。車エビの養殖場は塩田跡か。来年2月開通予定の古宇利大橋が、運天港からどうみえるのか。橋の開通は古宇利島をどう変貌させていくのか。そして60年近い歳月古宇利島と結んできた運天港はどう変るのか・・・。港としての機能はそのまま引き継いでいくのだが。フェリーの運行がなくなることは、古宇利島との結びつきが希薄になっていく・・・。
3.運天港(今帰仁村運天)
運天港は「山原の歴史」の柱の一つとしてきた。1471年の『海東諸国紀』に「雲見泊 要津」と記されたことで、運天が当時から重要な港として機能していたことがわかる。運天がよく知られるようになったのは源為朝公の「運は天にあり」と上陸した伝説、さらには「うむてん つけて こみなと つけて」と「おもろ」で謡われたことも起因している。
運天港は1609年の薩摩軍の琉球侵攻の本島上陸の足がかりをつけた港でもある。運天港での出来事を通して琉球国の姿が見えてくる。今回は運天港が果たした役割を港と関わる出来事と山原船を通して一つ一つみていく(ここでは概要のみ)。

▲道路までが、かつての海岸線 ▲運天港の右手に古宇利大橋見える

▲コバテイシは穀物の集積場 ▲エラブ木の側の石積みはかつての護岸

▲無名の墓、今はブロック閉 ▲辛うじて残っている木の墓
2004.12..16(木)
午後2時から歴史文化センターの運営協議会を開催。今年度の事業報告と次年度の大きな事業について。4月以降、業務が大幅に変わりそう。職員の業務がそれ以上過重にならないように振らないといけません。果たしてどうなることやら!
会合が終わると、以下のことが頭に詰っていたので運天のティラガマの杜と神アサギへ一目散。ティラガマの内部の画像は9月30日のタキヌウガン。
以前から運天の神アサギについて説明がつかずにいた。運天と上運天はもともと一つの村だったとの伝承がある。分離の時期は『琉球国由来記』(1713年)に上運天村と運天村があるので、それより古い時期である。1609年の薩摩の琉球侵攻の後だと想定している。
運天のティラガマが御嶽だとは、全く頭になかった。
「分離した村なら祭祀は上運天に行って、そこだけで行うはずだ」
「両運天で御嶽は一つでいいはずだ」
「運天の神アサギの香炉は、なぜティラガマに向いているのだろうか」
など、いろいろ考えてみたが、やはり腑に落ちないところがあった。番所があった重要な村であるにもかかわらずである。ティラガマは源為朝渡来伝説を根強く持っているガマであることは知っていたが、その杜が運天の御嶽だとは考えてもいなかった。
今年の10月運天の区長さんに呼ばれてタキヌウガンに参加させていただいた。旧暦の正月に神人がティラガマでビジュル石を持ち上げ占いをするということは聞いていた。タキヌウガンがあり、ティラガマを拝むとは全く予期していなかった。洞窟の内部に入り、そこに二カ所の香炉がある。一つは運天の御嶽のイビにあたる。もう一つは上運天に向けての香炉だと説明を受けた。納得である。ティラガマのある杜が御嶽で洞窟の中の香炉はイビに相当することを確認。(ティラガマの中で拝んでいるのは上運天と運天の区長)
ティラガマの杜が御嶽だとわかると、運天の神アサギの香炉はティラガマに向けてあることも納得である。以前から、この香炉の向きが気にはなっていた。何故、上運天の御嶽に向いていないのかと。また、上運天を背にしているわけでもなかった。今回、運天の御嶽がティラガマのある杜、そしてイビは洞窟の内部の香炉だとみると、一般的にみる御嶽と神アサギ、そして集落との関係がはっきり見えてくる。
これまで山原の御嶽を踏査しながら明治以前に分離した村は御嶽と神アサギを設け、祭祀をしっかりと行うという法則にかなっている。タキヌウガンを直に見ることがなかったら運天の神アサギと御嶽、そして近世の村の分離と祭祀について納得できる説明が、できずにいつまでもくすぶっていたにちがいない。

▲後方の杜が運天のティラガマのある御嶽 ▲杜の中にあるティラガマ

▲運天の神アサギ ▲洞窟の内部にあるイビの一つ
2.湧川港(今帰仁村湧川)
湧川港は羽地内海の湧川寄りの港である。港といっても舟つき場のない港である。山原船は少し沖に碇泊し、伝馬舟で荷物を山原船に積み込んでいた。湧川港からの積み出しは主に薪や藍玉であった。付近には今でも塩田跡あり、積荷に塩もあったに違いない。『朝鮮・琉球航海記』にも Salt Marsh や Salt Fields とある。
バジル・ホールの『朝鮮・琉球航海記』(1816年)に羽地内海のことを「水面は、どの方向からもさえぎられているため、鏡のように滑らかだった」(118頁)と表現している。私が注目したのは、『朝鮮・琉球航海記』(岩波文庫:189頁)の以下の記事である。いい港の条件がいくつかあげてある。
「このすばらしい港は、どんな激しい嵐のときであってもまったく安全に船を碇泊させることが
できる上、海岸は変化に富んでいるので、船が必要とする修理の種類に応じて、ふさわしい場
所を選ぶことも可能である。
岩が天然の船着場を形造っている場所が何箇所かあり、岩のすぐそばでも水深が八から一〇
尋(14~18メートル)もあるので、船を横づけにすることができる。傾船修理に適した遠浅の浜も
あるので、船底を修理するために船体を傾けることもできる」

▲手前が湧川港(今朝の羽地内海) ▲湧川の湊原一帯
2004.12..15(水)
これから山原の津口(港)を一つ一つ訪ねゆくのであるが、まずは羽地間切(現在名護市)の勘手納港からスタートさせるが、本格的なまとめは来年の8月の予定。ここで紹介するのは、その一部である。時間があれば随時書き加えていく。果たして続くか。
1.勘手納港(羽地間切仲尾村)
勘手納港は羽地間切(現名護市)の仲尾を中心とした海浜である。勘手納港の範囲は現在の呉我から仲尾、さらに仲尾次に至る約一里浜だと言われている。変哲もない海岸(勘手納港)が近世の琉球国の仕上世米を積み出す四津口(運天・湖辺底・那覇・勘手納)の一つであった。その変哲もない海岸が津口(港)として利用していた。そのような四津口が、私たちが描いている港に対する常識を覆してくれるのではないか。そんな期待があって勘手納港からスタートした。
勘手納港について、いくつか史料がある。数少ないが史料ではあるが、そこから勘手納港の様子を見ていく。近世の津口(港)がどのようなものだったのか、そして山原船がどのような航路を往来していたのか。一つひとつ拾っていく。勘手納港の様子が髣髴するウタがあるので紹介。そこに山原船を浮かべて見たいものだ・・・
昔この浜や 羽地村々ぬ
上納物や くまに納みて
勘定あてやい 払ゆる場所やて
勘定納浜んで 名じきてあんでさ
・1416年・・・北山グスクが攻められたとき、勘汀港に国頭・名護をはじめ中山の軍隊が集結し、
それから攻めた港だという。
・1785年・・・勘手納港で御米を積んで、船頭種子島の秀右衛門今月廿六日順風になったの
で出帆・・・(『親見世日記』南島風土記)
・明治14年・・・十一月廿八日朝午前九時、羽地国頭郡役所(親川番所)は発す。・・・路を左に折
行くこと数町、勘定納港に出づ。官庫瓦を以て葺けり。役所詰員及び村吏の奉送
する者、皆別れを告ぐ。
旧藩時代仲尾に公庫即ち定物蔵を設置し、羽地間切の貢米を勘定せしをもって、
この名あり・・・(『沖縄県国頭郡志』435頁)
バジル・ホールやペリー一行の記録もあり。画像は今朝の勘手納港である。近世の津口(港)は、沖に山原船が停泊しているそのような風景なのかもしれない。

▲仲尾のプァーシから見た仲尾次の浜 ▲プァーシから見た呉我から湧川方面

▲朝焼けの仲尾の海岸の様子 ▲定物蔵があったという場所 ▲船を繋留した石?
2004.12..14(火)
13日(月)午前中、東海岸の神アサギをゆく。北から東村の川田から南下する予定であったが、どうも気持ちが乗らない。それで宜野座村の祖慶からスタートし、名護市の久志から底仁屋。さらに東村の有銘から川田まで一通り足を運ぶ。今回調査したのは○の15所である。名護市の瀬嵩と安部と嘉陽に神アサギがないが、神アサギがあった場所は確認できる。
神アサギ調査とは別に、目的から外れた祖慶(宜野座村)や慶佐次(東村)の集落入口の獅子や辺野古(旧久志村)の一里塚(二つのマウント)などがなかなか面白い。
(工事中)

▲祖慶の集落入口の獅子 ▲慶佐次の獅子 ▲辺野古の一里塚
■宜野座村
・漢名の神アサギ(以前に報告あり)
①祖慶の神アサギ(集落内)
②松田神アサギ(集落内)
③宜野座神アサギ(古島の集落内)
■旧久志村(現在名護市)
④久志神アサギ(集落の外れ)
⑤辺野古神アサギ(集落の外れ)
⑥大浦神アサギ(集落内、移動あり)
⑦瀬嵩神アサギ(集落内、現在建物なし)
⑧汀間神アサギ(集落の東側、移動あり)
⑨安部神アサギ(集落内、現在建物なし)
⑩嘉陽神アサギ(グスク内、現在建物なし)
⑪天仁屋神アサギ(集落内)
■東村の神アサギ
⑫有銘の神アサギ(集落内)(有銘ノロ)
⑬慶佐次の神アサギ(有銘ノロ)
⑭平良の神アサギ(集落内)(平良ノロ、葺き替え)
⑮川田の神アサギ(集落内)(平良ノロ)
・宮城の神アサギ(集落の外れ)(?ノロ、葺き替え)(前回)
・高江は神アサギなし
2004.12..12(日)
月曜日は休館なり。しかし北海道から30名余がやってくるので午後から出勤。
これから、「山原の津口(港)と山原船」をテーマに各地の調査にはいる。特に津口(港)を通して何が見えてくるのか。山原船が果たした役割を史料を通してどう見えてくるのか。津口(港)をみている私達の今の常識が、船の時代の常識ではなかったり。山原船が担った長い時代の流れが、今の私達に何を伝えようとしているのか、さらに将来に向けてどんな指針が得られるのか。ぼつぼつと。
近世の祭祀と土地制度は表裏一体のものである。その時代の状況を描くことで祭祀が貢租を納める、租税を取る関係が、祭祀がムラ・シマで必要となる必然性が見えてくる。多くのムラ人が祭祀に参加していた。参加するとご馳走にありつけたとか、なにか食べ物にありつけるから参加したとか。妊婦は参加することがまぬがれたなど・・・。出欠をとっていたというのは何を意味しているのか。
近世史料から土地に関わる文書をみていると、村々での祭祀が数多く行なわれる必然性が見えてくる。宮古八重山の人頭税が過酷だとの議論がなされるが、沖縄本島の地割をはじめ作得地や仕明地や請地などの土地に関わる仕組みが、いかに人々の生活を苦しめたかをしると、祭祀や豊年祭などが島やムラ挙げて参加し行ってきたのか。その答えが見えてきそうである。
屋我地の仕明地や古宇利島の人たちが屋我地島に田畑をもっていたということが気になっていたので、目が覚めるや屋我地島の済井出まで。
【屋我地島済井出をゆく】(現名護市)
屋我地島は近世の今帰仁間切と羽地間切との間で土地利用や村移動などで、間切域を超えたところで関わりを持っている。現在の今帰仁村の湧川地内にあった我部村が1736年に屋我地島へ村移動。我部と松田の二ケ村が屋我地島に村移動したのは、島の開拓(仕明)が目的であったのであろう。地割制の下で、屋我地島は未開拓地が多かったにちがいない。
それだけでなく今帰仁間切の古宇利や運天、仲宗根、湧川の村人たちが屋我地島に田畑を耕作地として持っていた。
昭和6年に行政区(昭和26年に分字)となった運天原に今帰仁間切運天村から移住したというナハシの新城家があり、済井出には大堂原(ウフドー)に古宇利島の人たちが田畑を持ち、古宇利田(フイタ)と呼ばれ、田のない古宇利島の人が田をしていた様子がうかがえる(『民俗Ⅲ 民俗地図』412、448頁参照)。屋我地島に土地を持っていたのはナカゾー(松田)、アガイゾー(松田)、ハーラーヤ(諸喜田)・ウイマーヤ(山川)などである。
「今帰仁間切仰渡日記」(咸豊5年:1855)(『近世地方経済史料九巻所収』に、古宇利島とは別に以下のような史料がある。
「羽地間切、屋我済井出饒平名三ケ村、百姓模合仕明まなしろ原下々
田八千八百二十二坪一合、乾隆四十一年同四十四年、村向証文を以
代銭一万五千九百貫文にて、饒平名村玉城筑登之屋我村金城筑登之
饒平名村まつ宮城江売渡、夫より段々売替、当時今帰仁間切下運天村
うし上間、同間切仲宗根村島袋登之親雲上、同間切天底村かまた仲里
三人にて、代銭三万五十貫文を以て買取致所持候処、屋我済井出饒平
名三ケ村の儀、地面狭く右模合仕明取返入地割不申候て不叶、村向模
合等相企、右代銭三万二百五十貫文・・・」
羽地間切済井出村は、『琉球国由来記』(1713年)には済井出村と記されるが、それ以前は済出井村とある。屋我地島は屋我村一つから饒平名村と済井出村が分かれたとの認識がある。1713年には屋我・饒平名・済井出の三カ村となる。その当時、神アサギや祭祀がしっかりと屋我ノロのもとに祭祀が行なわれている。村の祭祀はクニの制度であったことが知れる。
(そんなことをまとめながら、自分に怒っている自分あり。ハハハ!)

▲杜はウガミ(クシジー) ▲シマヌアテーにある済井出の神アサギ

▲左が神アサギ、右が神殿 ▲済井出の集落と海のウフシー(大石)

▲小港御嶽のイベの祠 ▲小港御嶽(杜)の遠景
2004.12..11(土)
午前中「ムラ・シマ講座」。その様子はうしまるさんが「業務日誌」の方で紹介。
かつて仲宗根のマチ、市場のあったところまで。その面影があちこちに。30年から40年前の市場周辺の個々の家の盛衰と長いクニの歴史のうねりとが重なってくる。自分達の人生が長い歴史の通過点を刻んでいることを実感する。
仲宗根のアサギミャー(神アサギの庭)に琉歌(八・八・八・六)の碑がある。「仲宗根のムラは黄金杜(御嶽)に抱かれ、水田を前方にして・・・」と、ウタキにたつとその様子がよくわかる。
だんじゅとよまれる
仲宗根のしまや
黄金杜くさて
田ぶく前なち

▲ウタキの中腹にある仲宗根の神アサギ ▲アサギミャーにある歌碑
2004.12..10(金)
ここしばらく『古宇利誌』の編集や校正に時間がとられている。今のところスムーズに原稿出しが進んでいる。21編中12編(230頁)だから、まだ半分か。自転車操業にはいているので、そのまま突っ走ります。来週あたりから、写真割付にはいれるかな?
【仲宗根をゆく】
「ムラ・シマ講座」を開催するので今帰仁村仲宗根をゆく。今年度(7回目)最後のフィールドワークである。ここ11年間で100回近い開講である。調査ポイントにすると500箇所余である。その調査の蓄積は膨大なものである。この「文化センターの動き」の記録も一連の流れの中にある。今では、さりげなく使っている「ムラ・シマ」が、一人歩きしつつある。
仲宗根のムラを意識しながらゆくのは、今年は三回目である。夏には立て続け行っている。訪ねゆく度に仲宗根のムラの声に耳を傾けている自分がそこにいる。仲宗根のムラウチ集落の後方のグシクンチヂ(ウタキ)からマチを眺めてみた。マチの中を大井川が流れ、北部製糖工場の敷地は、かつて水田が広がっていた。一帯の地名が前田原である。その地名がかすかな記憶を鮮明にしてくれる。いつの間にか、工場の二本のエントツが姿を消している。
仲宗根は外見マチの姿を見せている。マチへの発展のきっかけは、明治31年大井川に架かった一本の橋であった。大井川上流部の寒水村にあったマチ(現在はプルマチと呼ぶ)が仲宗根の前田原に移転させるきっかけとなった。これから仲宗根のマチがどう展開していくのか、いくらか青図面が描ける。画像は仲宗根のグスクンチヂにあるオミヤから眺めている。
麓はムラウチと呼ばれ、グスクンチヂの杜(ウタキ)を背にして展開している集落である。ムラウチ集落はウタキのイベ(現在はオミヤの祠)を要として扇を広げたように形成された集落である。オミヤに登る途中に現在の神アサギがある(以前の神アサギは、もう少し麓の方にあった)。神アサギの側に獅子小屋がある。
明日の「ムラ・シマ講座」で、仲宗根のマチの展開の面白さをどう実感させようか思案中。仲宗根の先輩方の参加があるので・・・。これから、いくつか考えることに。仲宗根のマチに市場や銭湯があり、そして映画館があった時代があったのだと。

▲オミヤからマチをみる ▲手前がムラウチ集落

▲仲宗根の神アサギ(隣の小屋は獅子小屋) ▲オミヤの中の石(イベ)
2004.12..9(木)
先日国頭地方を歩いていて御嶽が本集落側ではなく、川を越えた場所に設置したムラがいくつかあった。国頭村の辺野喜と奥、そして安波である。詳細な調査はまだであるが、そこにムラの人たちが御嶽をどう位置づけているか見えるかもしれない。
御嶽について「今帰仁間切各村内法」(第60条)は
「嶽々ヨリ生木並枝葉枯木下草等刈取ルモノハ科銭十貫文申付候事」
と規定している。
また、「国頭間切各村内法」(第74条)では、
「嶽々牛馬踏入候得ハ主人ニ神ノ御咎目有之候迚屹其牛馬ヲ殺候向
モ有之由不可然義ニ候右様ノ節ハ其主タルモノハ第一其慎ミヨ以テ誠
心ヲ尽シ祈願可致之処時ヨタノ虚言ヲ信用シ牛馬ヲ殺シ候テハ不相済
事候条以来屹度可召留候若相背キ右様ノ仕有之候テハ科米可召行事」
と規定されている。

▲辺野喜のウガミ(御嶽)(橋の向こう側の杜)▲ウガミの中のイベへの階段

▲電柱の左側の杜が奥の御嶽 ▲奥のイビ御嶽建設之碑

▲安波のウガミ(ヌーガミ)中央部の杜▲ウガミは本集落の川向こうにある
(ウガミは右手にある。画像のさらに右手)
2004.12..8(水)
広島からもみじ饅頭と電車クッキーが届きました。ありがとさん。香ばしい饅頭でした。電車クッキーは広島駅でした。宮島口は終駅(出口)なのだろうか。いや、その間に駅がいくつもあるのかも?!中身の数が駅の数なのだ・・・。いろいろ空想してしまった。ほっと一息。「一気に食べてはいけません!」との注意書きもあり。ハイ
【大宜味村喜如嘉の神アサギ】
大宜味村には、現在神アサギがない字(アザ)がある。その一つ喜如嘉は現在神アサギがない。1713年の『琉球国由来記』や明治17年頃の『沖縄島諸祭神祝女類別表』には神アシアゲが登場する。また喜如嘉にも明治末まで神アサギがあったことは以下の文章からもわかる。
神アサギのあった場所は、画像の事務所や養蚕室があった場所にあった。現在の公民館は画像の場所から昭和58年に現在地に移っている。一帯はアサギバールと呼ばれていたようでアサギがあったことに由来するのであろう。アサギがあった場所は養蚕室→村屋→字事務所と機能を変えて利用されてきた(『喜如嘉誌』264頁)。
「昔の事務所の所在地は東前田屋敷であった。当時今の事務所のあるところはアサギと
言って青年の遊び場であり、チキ石と言って力石が二、三個あって若者達が力自慢をし
て楽しんでいたところであった。六十年ばかり前、此のアサギが事務所として好適地であ
るということから現在地に移転したのである」(『喜如嘉』平良良太郎編1965年発行)。

▲昭和28年に建てられた公民館(58坪) ▲昭和初期「養蚕室」として建設
『琉球国由来記』(1713年)の喜如嘉村の神アシアゲをみると、城村の祭祀同様、按司や惣地頭が関わる村である。大宜味按司は間切番所のあった田港ノロの祭祀とも関わるが、喜如嘉・城村との関わりは喜如嘉の水田地帯とみていい。大宜味按司や惣地頭は喜如嘉ターブクの水田の米を家禄や作得として得ていたのではないか。因みに大宜味按司(御殿)の家禄80石、作得米30石余、大宜味親方(殿内)は家禄60石、作得米29石である。脇地頭の喜如嘉親雲上の家禄15石、作得米19石余である。
2004.12..7(火)
先日国頭村の辺土名でデジカメのバッテリーが切れたので調査はストップした。それで、今回(6日)は国頭村辺土名より北の宇良の神アサギからはいる。以下の18の神アサギを踏査する予定にしていたが、体調が思わしくなく、東村宮城で夕暮れとなり打ち切り。東村宮城以南は近々に。
神アサギを中心に見ていくのであるが、御嶽も気になりながらの調査であった。御嶽も集落との関わりでみると、国頭村辺野喜や奥や安波などの御嶽は集落から川を越えた対岸にある。集落から川を越えた向こう側に御嶽を置いてあるのは、地理的なこともあろうが、もっと別の意味があるにちがいない。それは何か、どう意味づけができるのか、まだわからないが、なかなか興味深いものがある。
御嶽の位置とは別に国頭村の神アサギの香炉の位置(神人が向かう方向)は、今帰仁あたりとは、異なっているのがいくつか見られる。集落でもなく御嶽でもなく、それらは北の方向に向いている印象を持った(確認必要)。
国頭村の神アサギをいくつか画像で紹介することに。以前「国頭村の神アサギ」について概要についてまとめたことがあるが、来年には本格的なまとめをしたいと考えている。その膨らませの調査である(○は今回踏査済)。比地(前回調査)や安田や安波、他の地域でも神アサギの葺き替えが見られる。
「山原の神アサギ」で国頭村のアサギを画像で紹介してある。再び神アサギを訪ねてみるとムラ・シマの個性がまた見えてくる。今回は特に神アサギの機能について考えるために神アサギの位置についての確認である。神アサギが祭祀空間であると同時に、別の機能も果たしていたのではないか。
国頭村宇嘉は『琉球国由来記』(1713年)に登場しないが『御当国御高並上納里積記』(1738年以降)では登場する。『沖縄島諸祭神祝女類別表』(明治17年頃)には「神アシアゲ一ヶ所、勢頭神殿内一ヶ所」とあるので『琉球国由来記』(1713年)では記載もれした可能性がある。
神アサギで行なわれる祭祀について・・・(略)。
(突飛なところで幽霊とであったので腰を抜かしてしまった。動くたびに
ヨイッショ、ヨイッショ状態。神アサギや御嶽についての研究不足なの
でしょう。ハハハ)
▲集落内にある宇良の神アサギ ▲御嶽の麓にある伊地の神アサギ

▲集落内にある与那の神アサギ ▲屋敷内にある宇嘉の神アサギ

▲集落内にある安田の神アサギ ▲集落の上部にある安波の神アサギ
■国頭村の神アサギ
①宇良の神アサギ(辺土名ノロ)(香炉二基。一基はトヒチャ)(集落内)(4本柱)
○トヒチャ神アシャギ(辺土名ノロ)
②伊地の神アサギ(辺土名ノロ)(御嶽の麓)
③与那の神アサギ(与那ノロ)(集落内)(6本柱)
④謝敷の神アサギ(コンクリート)(与那ノロ)(ウガミの麓)
⑤佐手の神アサギ(与那ノロ)(集落内)
⑥辺野喜の神アサギ(与那ノロ)(コンクリート)(集落内)
⑦宇嘉の神アサギ(?ノロ)『琉球国由来記』にナシ(屋敷内)
・宜名真は神アサギナシ(辺戸から分離)
⑧辺戸の神アサギ(辺戸ノロ)(御嶽に近い所)
⑨奥の神アサギ(奥ノロ)(集落内)
⑩楚洲の神アサギ(現在なし)(ノロ?)(御嶽の麓)
⑪安田の神アサギ(安波ノロ)(茅葺き替え)(集落内)
⑫安波の神アサギ(安波ノロ)(葺き替え、梯子)(集落の上部)
■東村の神アサギ
・高江は神アサギなし
①宮城の神アサギ(?ノロ、葺き替え)
②川田の神アサギ(平良ノロ)
③平良の神アサギ(平良ノロ、葺き替え)
④慶佐次の神アサギ(有銘ノロ)
⑤有銘の神アサギ(有銘ノロ)
2004.12..5(日)
月曜日は休館です。のんびり休みます。とは言っても・・・
今帰仁村字仲尾次は、かつて中城村であった。中城村から仲尾次村へと変る。ところが『琉球国由来記』(1713年)に中尾次村と中城村が、同一村でありながら表記は二つでてくる。
ノロは中城巫とあり、今でも中城ノロと呼ばれている。ただし、現在の中城ヌルドゥンチは諸喜田村(現在諸志)にある。また「辞令書」には「中くすくのおきて」(万暦14年:1586)、「中くすくのろハ」(万暦33年:1605)、「中城のろハ」(隆武8年:1652)と登場する。1648年に中城の使用を禁止する達しが出てようで中(仲)尾次となるが、これまで使ってきた中城(中くすく)も実際は使われている。
寛文8年(1688)に「中城と申名字衆中百姓下々迄も、御法度にて候間、別名に替申候様可被申渡候」の達が出されたようである。中城間切は世子領として中城王子を名乗ることが慣例になったようである。王子名を使うのを憚ったのであろう。
中城は近世になると仲尾次と表記されるようになる。中尾次村の御嶽として『琉球国由来記』(1713年)に中尾次之嶽とギネンサ嶽御イベが出てくる。中尾次之嶽はスガー御嶽をさしているようだ。ギネンサ嶽御イベは中尾次村の御嶽とあるが崎山の御嶽ではないか(詳細な調査必要)。
中尾次之嶽はスガー御嶽あるはナカグスクと呼ばれる場所である。スガーは塩河のこと。スガー御嶽の麓は平敷川(ヒチョシナガー)が炬港から海水が遡流する場所にあり、そのため塩分を含む水が湧き出てくるのであろう(現在は川の途中で堰き止められているのでスガーあたりまで海水が届かない)。
スガー御嶽は別名ナカグスク(中城)とも呼ばれ、今の仲尾次の故地である。グスクの中はテラスがいくつかあり、イビにあたる場所に香炉が置かれている。この中城が何をして中城と呼んでいるのか不明。羽地間切の仲尾次(中城)もしかり。
▲中城之嶽(スガー御嶽:ナカグスク) ▲仲尾次の神ハサギ(現在)
2004.12..4(土)
山原出身の四名のメンバーが展示会を1月に予定している。昨日企画書を持って打ち合わせ。タイトルは「4人展R」(仮称)である。四名の作品はデザイン(平良)・絵画(具志堅)・染色(酒井)である。作品の現物は見ていないので、展示プランはこれから・・・。どんな展示になるか楽しみである。
今朝はY学園の10名の生徒達がやってきた。

2004.12..3(金)
「玉城村ノカネイ跡職願之儀ニ付理由書」は、ノロにまつわる様々な状況を知ることができる。例えば、『琉球国由来記』(1713年)の巫(ノロ)は・・・ノロの・・・は、当時ノロが住んでいた村名を指して名付けたと考えられる。しかし、事情によっては他村にノロ家は移っていることがある。その様子が玉城ノロ文書から読み取ることができる。
『琉球国由来記』(1713年)にあるノロ名の村と現在のノロ家(ヌルドゥンチ)が異なっているの今帰仁(間切)に以下のノロ家がある。玉城ノロは他に移り明治になって玉城村に戻ったケースである。その経過が昨日の「玉城村ノカネイ跡職願之儀ニ付理由書」からしることができる。中城ノロについても同様な文書が残っている(結果は本筋にもどっていない例)。
・中城ノロ・・・・・・諸喜田村(現在諸志にある)
・今帰仁ノロ・・・・親泊村(現在今泊)
・玉城ノロ・・・・・・玉城村内(文書をみると本筋に戻した例)
ノロ名とヌルドゥンチが異なるのは、玉城ノロのような事情があったものと思われる。いずれも、ノロ管轄内での移動である。羽地間切の屋我ノロもどうであろうか。明治の屋我ノロの住所は羽地間切饒平名村で、現在も饒平名に我部ヌルドゥンチが饒平名公民館側に現存している(屋我ノロは屋我ではなく饒平名にヌルドゥンチがある例)。
ノロはノロ家(ヌルドゥンチ)の継承であるが、娘が嫁ぎ先でノロを勤め、本家にノロを継承者がなくノロの娘がノロを継いだり、後になって本家筋に継承者が出て引き継がれたり、あるは引継ぎを拒否したりするなど様々状況が生じている。表向き継承や祭祀を行う役目が取りざたされるが、背景にはノロ地という土地やノロ職の身分や保証のこともかかわっている。
(文書の背景を持って玉城ヌルドゥンチと屋我ヌルドゥンチを訪ねてみた。祭祀と神職とのかかわりが実感として伝わってくる。祭祀が行われる理由は、予祝など祈りとしての祭祀ではないことが見えてくる。別報告予定)

▲文書のように杜の中にヌルドゥンチを建立 ▲杜の中の玉城ヌルドゥンチ

▲玉城ノロの位牌(野呂カマタとある) ▲祭祀に使われた鼓

▲饒平名の神アサギとアサギの側にある屋我ヌルドゥンチ(現在名護市饒平名)
2004.12..2(木)
明治35年の文書(「玉城村ノカネイ跡職願之儀ニ付理由書」)を起こしてみた。今帰仁間切玉城村のノロ職に関するものである。ノロの継承や取り戻しにつての事例である。それと玉城ノロ家は玉城村に置かれるのが慣例だとし、取り戻しの理由としている。



玉城村ノカネイ跡職願之儀ニ付理由書
今般玉城ノカネイ跡職願之義ニ付理由奉陳述抑々玉城ノカネイ職タルヤ先々我先祖ヘ御下命相成リ其後代々吾ガ血統内ヨリ継承セシ所タリ 然ルニ数百年前之事ハ口傳而己ニテ旧記等モ無之候ニ付先ヅ中古我ガ六代ノ先祖ヨリ順次陳述仕候
一、先祖武太平良(武太平良ハ六代ノ先祖ニ當ル)妹ウトへ
継承シ該跡職ハ
ニ、平良筑親雲上(平良筑親雲上ハ五代ノ先祖ニ當ル)姉玉
城村松田方婚嫁セシマカへ継承シ該跡職ハ
三、平良筑親雲上(平良筑親雲上ハ四代ノ先祖ニ當ル)妹カナ
ヘ継承し該跡職ハ
四、本家血統内ニ継承スベキ人物ナキテ以テ不得己
前記五代ノ先祖平良筑親雲上姉マカ婚嫁松田方ノ外孫与那嶺村内間方ヨリ松田方ヘ養女ニナリシナベへ仮ニ継承セシメ該跡職ニ於テモ尚ホ我ガ血統内ニ相当ノ人物ナキテ以テモ前職ナベ養妹即チ松田方養二女マツ(前職松田マツノコト)ヘ継承セシメタリ然ルニ其後チ該マツ在職中我ガ血統ニ相当ノ人物相出来候ニ付此際更代合ヲ以テ血統ヘ帰シラレシ度旨関係村(玉城 平敷 謝名 仲宗根 四カ村ヲ云)並松田マツ方ヘ申出候処種々協議ノ末遂ヒ跡職継承ノ事ニ別紙証拠書並日記之通没シ
去ル明治廿七年七年五月ヨリ跡職見習(俗ニ前据ト云フ)トシテ現ニ本職者同様相勤メ居候事ハ別紙関係村証明書之通ニ御座候且ツ該ノカネイ神社(ノル殿内)ノ位置ハ古来玉城村境界内ニ設置セラルル慣例ナルヲ以テ
従テ神職ノカネイ住家モ必ズ神社敷地内ニ一定セラレシガ前職者松田マツハ後来自分ノ血統ヨリ継承セラザル理ヲ悟リ住家モ去ル明治三拾一年ニハ生家仲宗根村山城方ヘ引移シタルヲ以テ其跡ヘ私方ヨリ新ニ住家ヲ建テ該跡職ト定メタルツルヲ現住セシメ神社ヲ管掌セシメ居候然ルニ前職故松田マツ方ヘニ於テハ該親類中ヨリ推挙セントノ考案ヨリ拙者ヨリ提出致候採用願ニ連署セザル次第ニ御座候間何卒前件ノ次第被遊御洞察右ツルヘ御下命被成下度此段理由奉開陳候也
明治三十五年 国頭郡今帰仁間切玉城村拾七番地
平良 幸通印
親戚同郡仝間切仝村拾六番地
平良 幸誠印
仝上仝郡仝間切廿一番地
平良 幸佐印
仝上仝郡仝間切拾九番地
平良 幸貴印
仝上仝郡仝間切廿二番地
平良 幸宗印
2004.12..1(水)
親川グスクをゆく。親川グスクは名護市(旧羽地間切)にあり、羽地グスクともいう。このグスクは今帰仁グスクの伝承と深く関わる。『明実録』に登場する山北王のハニジは、この羽地グスクからきた人物ではないかとのこと。
山北王のハニジが羽地グスク出身の按司だったかは別にして、この羽地グスクがどのような性格を持っていたのか興味がある。まずは米どころである羽地地域を支配下に治めていた按司の居住地。後方に勘定納港を抱えていること。グスク後方に仲尾の御嶽のヒチグスクとの境界を堀切で区切られている。堀切は神道として使われていたようだ。
20年前にグスクの碑付近に原石があったような記憶がある。まだあるだろうか。今回確認することができなかった。

▲田井等からみた親川グスクの遠景 ▲親川グスクの最高部の拝所
