2002年
           
5月の動き             トップ(もくじ)へ   
                 
             


2002.5.31(金)
 

 沖縄県地域史協議会の研修会が恩納村立博物館で開催された。午前中は巡見である。これがまたまた楽しみの一つ。山田グスクから旧道(宿道)を通り仲泊遺跡まで「歴史の道をゆく」であった。メーヌカーの囲いに石の錨が使われていた。元寇の錨石と呼ばれているという。その石が花崗岩だと説明を戴いた。縄で結わえたという窪みがあり、久米島の宇江城か久米島自然文化センターでだったか見たことがある。
 山田城の麓にある旧集落が気になった。湧泉や井戸や屋敷跡、それに火神の祠などがあり、人の生活した痕跡が足を釘付けにする。移動前の集落の復元がしたくなる。山原の古島タイプの集落に近い印象を持つ。

 『琉球国由来記』(1713年)に「山田巫火神 読谷山村」「神アシアゲ 同村」とあり、また山田巫の祭祀である。それからすると読谷山村と山田村は同一の村のようである。それから後の「恩納間切神拝所」(明治15年頃?)の山田村に神アサギ一ヶ所、後ノ御嶽、ノロ殿内火神所一ヶ所とある。明治まで神アサギとあり、山田村に神アサギが存在していた。また、明治34年頃の地図にも明記されている。そのことを前提に神アサギのあった場所の確認をしたかった。改めて旧集落の痕跡をたどってみようと思う。 
    
明治34年頃の山田ムラ集落の図(『恩納村誌』所収)

 護佐丸の父祖の墓(乾隆5年に修復)を見て、山田の旧集落跡からさらに石畳道を下り、石橋をとおり国道58号線へと下る。途中に「無未阿」の碑や移転した久良波の井戸(三ヶ所)などがある。国道沿いから再び石畳道を登り比屋根坂(宿道:カンサ原))をと下る。そこに仲泊遺跡(国指定史跡)がある。

   
▲神アサギ付近の火神の祠 ▲無未…の碑  ▲移転した久良波の井戸

 午後からは総会、その後近年発刊された移民編の合評会であった。


2002.5.30(木)
 

 来館者の多いで日であった。午前中は西原町(公民館)から。戦争の展示企画の件で。準備が整わず知恵だけ提供。それも楽しみなり。午後から湧川小学校の生徒達がやってきた。湧川と今帰仁グスクについてである。なかなか足元に何があるか、そこから何を学びとることがきるか、拾っていくことができるか?なかなか難しそうだ。一回ではね。それと指導者が、発想の転換を求められている。指導者が足元に関心を持つと、子供達もすぐそこに目が向きます。歴文にいくというだけで、子供達の目の色が変わるように。

 「湧川とわたし」が大きなテーマ
 湧川はどんなムラなのか?
 湧川というムラはいつできたのか?
 湧川ができる前はどうだったのか?
 羽地内海に浮かぶ二つの島の名前は?
 海岸にある石積みは、なんの跡?
 嵐山ってなんだろう?
 神アサギってなんだろう?
 新里ヤーってなんだろう?

という風に、上空から眺めた湧川の大きな写真を見ながらの話。自分の家が見つかるかな? 見つからない? ごめんね。湧川の全部が入っていないね。などなど。身近なテーマを見つけ出すことからスタート。
 神アサギについては、普段から関心を持っているようだ。そこで、別のムラの神アサギを見せながら、湧川にしかないことも大事だが、どのムラにもあるもの、それがもっと大事なんどという発想。また「歴文が全てを教える」ということは考えていない。子供達の経験や目の高さと自分の言葉で話して欲しいし、発表の場を設けている。そこで足りない分はホローしてあげる。そんな姿勢が大事だね。


 
「湧川とわたし」がテーマ(湧川小学校

  三時過ぎに古宇利中のH先生がみえた。お手製のニンニクのたっぷりはいたモズク羊羹?持参で。(美味しかった。ことわるわけにはいかんさね) 6月中旬には古宇利中学校の総合学習の場面を設定したいとのこと。昨年もやったので、今年は楽しみだね。今回は少し厚みをつけていくことになるかな。一年振り返っての報告を受けた。手応えがあったようでH先生の方がウルウル感動して話してくれた。遠くから古宇利島の子供達の動きを見ている。総合学習といわなくても島あげてみんなで学んでいるといった感じ。子供達が新しく転勤してきた先生方や島を訪ねてきた方々に島のことを教えてあげる。そんな風景が見られそう。実にいいね。


2002.5.29(水)
 

午後2時から運天の字誌。運天の字のおじいやおばあとの顔合わせである。十数名の方々の参加があった。これから時期を見計らいながら一人ひとり訪ねていくのだが、どんな話ができるのか、その方にどんな話を聞けばいいのか。そういった聞き取り調査の下調べみたいなものである。やはりみんなの前で自分が語りたいことを語っている姿をみているといいものだ。運天のトンネルを造った頃の様子。運天港の護岸・マーウィ・薪とり・公民館の移り変わり・鍛冶屋跡・大川・アナガー・田んぼ・ムラ学校・運天での地割・オランダヤー・クンジャーへの階段の道・髪洗いの粘土・戦時中あった大きな瓦家・運天の薪取り・古宇利島とクンジャーの渡しなど、話題に事欠かない「ゆんたく会」でした。今日の「ゆんたく」から活字にしてみるとどうなるだろうか。

 おじいやおばあの思いや伝えたいことが字誌にふんだんに取り込めることができればと考えている。90歳になる座間味栄和さんも家では参加しないとしぶっていたようだが、会場ではにこやかなに嬉しそうな笑顔。職員に「首里から来たのか」と感無量といった表情をされていたという。聞いた話として明治の地割について話して下さった。「家に訪ねておいで」とのこと。そういった調査は、おじいやおばあの人生をおさらいすることでもある。そして80年90年の歳月を過ごしてきた先輩方の生き様に直に触れる機会でもある。こちらも一人ひとりの厚みのある記録づくりの手伝いができそうである。

 
   お茶や差し入れのクァッチーを食べながら


2002.5.28(火)

 沖縄県地域史協議会の総会および研修会が31日(金)に開催される。今日は「会誌」の印刷製本で糸満市や那覇市、沖縄市、石川市、名護市からやってきた。こちらは業務を抱えているのでなかなか手助けができずである。また右手が使えず状態なのでなおさら。側で監督するのみ。300冊近い冊子の製本である。永年やった経験はあるが、経験を積んでも楽になることはなかったな、との思い出。大会の三日前に印刷製本ができたのは、まれなことではないか!!いや、はやご苦労さん。みなさん、ケーキや飲み物など盛りだくさん担いでの今帰仁入りでした。早めの完成メデタシメデタシですね。大変な労力、いつも頭が下がります。

 
 
製本された「会誌」(第25号)   地域史の9名の勇士達?


古宇利のプーチ御願調査モ(2002.27

 昨日、古宇利島のプーチウガンの調査をした。神人達の話を自然な形で聞くことができた。祭祀の全体の流れを報告する。プーチ御願全体をみると、宮城真治がいうように「津口からの疫病を追い払う」だけでなく、神人の祈りの言葉の中に五穀豊穣や海の豊漁を願う認識が見られる。西側の方は津(港)を拝む場所が多いので、津口から疫病がはいてくるのを防ぐイメージが強いのである。東側では三箇所でウタキへのウトゥーシがあり、また風気や海の神、アギ(陸)の神へ豊漁豊作の祈りが唱えられる。「イリやイリで、アガリやアガリで拝んでいます。アギ(陸)のつくりもの、海のもの、たくさんでィかせください」と唱えている。

 アザラマガイではプトゥキヌメーとソーヌウタキへお通しと、津口(神人達は竜宮の意識をもっている)へ向かって御願をする。それだけでなく、使ってきた井戸への祈りもあり、雨乞いの意味合いもありそうだ。津口と井戸での祈願は、線香に火をつけずにおく。終わると土手などにおく。井戸で拝む方向の意識を神人に確認してみたがはっきりしなかった。二つの井戸とも祈る方向は明らかに東側の津である。津からきて飲み水や生活用水に疫病などが入り込み水を汚さないようにとの祈りにちがいない。

 プーチヌ御願全体を通してみると、名称からくる風気や疫病などが島に入ってこないようにとの祈願、それだけではなくウタキへの祈願、それと海のもの、陸の物の豊漁・豊作祈願の内容も含んだ祭祀である。疫病退治はシマの人々の健康と繁盛と結びついてくる。また御嶽(神?)に向って報告している(お通し)。

農村環境サブセンター(公民館)

 午前12時頃から神人の田港フミさんと大城幸美さん早々と公民館に集まってきた。1時半頃に兼次フサエさんと山川ミツさんがやってきた。供え物の準備が始まる。線香は1束+2本+半分。白紙(1枚)・紙銭(8枚)。線香・白紙・紙銭をセットにして東西8箇所分を準備する。また、それぞれの箇所の香炉の数だけ準備する。各拝所の香炉の数だけ線香・白紙・紙銭のセットを準備していく。混乱を起こさないため、あるいは不足しないようにとの配慮である。線香は24支向(24の方向)だという。ビンシーに東西のを別々に準備した。但し、東側はお盆を利用した。パナメー(花米)は洗った米2コップ。洗ってない米1コップ。それに塩と神酒が準備された。ウチャナク(お餅)と三枚肉と豆腐、さらに神酒(泡盛)が準備された。2時頃になると古宇利春男さんと山川貞子さん(内神)がやってきた。再度持参していく供え物を確認する。

2時20分、二台の車に分乗してお宮へ

 お宮は古宇利春男氏が線香や神酒などの手配をする。海に関わる拝所の故か。香炉が4つあり、四箇所に線香をたて紙銭は外で燃やす。ビンシーに入れたパナメー(花米)・塩を盛る・塩に酒をかける・ウチャナク(餅)・三枚肉・豆腐を備える。そこでの唱えは聞くことができず。

ヒジャヤー(比嘉屋)

  お宮が終わるとヒジャヤーへ向かう。そこは七つの香炉があり、線香は七箇所に立てる。外で古宇利春男さんが紙銭を焼く。ここは内神の山川貞子さんが備えの準備をする。

ヌルヤーへ

 ヌルヤーはノロさんが住んでいた屋敷跡。ノロさんが住んでいたのはウタノロさんの前のノロ。戦争で焼けたという。神人達は屋敷の建物の配置を記憶している。香炉は一箇所のみ。建物内に海神祭に使うヌミがかけてある。現在ノロさん不在。ここでもヒジャヤーと同様な御願をする。

ウチガミヤー(内神屋)

 ウチガミさんが住んでいた屋敷と祠。ここでは二箇所に香炉がある。紙銭は古宇利春男さんが外で焼く。ここはウチガミ役の山川貞子さんが供え物などの準備をする。

ナカムイへ

 ウチガミヤーから神アサギナーにある舞台裏からナカムイヘ。ナカムイにあるイベ(祠)まで行く。そこは古宇利春男さんが線香や供え物の手配をする。田港フミさんは足が痛いのでアサギナーで待機する。

  (神アサギで東西の二手に分かれる)(以下は東組の御願)

車で東側のマーハグチの御嶽へお通し

  マーハグチへの道がないので道路の側でお通し(遙拝)をする。供え物は線香・白紙・紙銭(燃やす)、ウチャヌク(餅)・塩・神酒(泡盛)・豆腐・三枚肉を供える。供え物はどこも一緒。ここでも線香は火をつける。兼次フサコさんと山川ミツさんが参加する。

トゥンガヌウタキへのお通し

 トゥンガヌウタキへの道がないので、道路沿いでトゥンガヌウタキに向かって御願をする。ここでは兼次フサ子さんが線香や供え物など整え、唱えて祈願をする。供え物は一緒。

アザラマガイ(アサギマガイ?)

 ここでは小石を三つ準備し、一つはプトゥキヌメーへ、二つめの小石はソーヌウタキへ、三つ目は海(津口)への遙拝。前者の二箇所は線香に火をつけるが、右側の津口は線香に火をつけない。その区別は明確にしている。それぞれに向かって線香や塩・神酒などを個々に供え、祈りも個々に行う。(ここでウサンデーをする。私は神酒とトーフを戴いた)

アガリガー(東の井戸)

 井戸でも同様な祈りや供え物をする。線香に火をつけず。祈る方向は東の方(津口)。

イリガー(西の井戸)

 井戸でも同様な祈りや供え物をする。線香に火をつけず。祈る方向は東の方(津口)。

 井戸が終わるとトゥンヂバマで合流するようであるが、今回西組が早く終わり公民館で待機していた。5時過ぎに両組ともすべての御願場所での祈願をすませ公民館で合流する。

 神人たちを公民館でしばらく語らい、船の時間になったので中座した。改めて御願について伺うことにする。祭祀などのタイトルでその祭祀の本質を見極めようとする傾向にあるが、タイトルは便宜上のものであり、本質をついている場合もあるが、プーチ御願もそうであるが海神祭(ウンジャミ)も祭祀の一面をいいあてているにすぎない場合がある。そのため、他の動きを見逃しているのではないか。自戒を込めての島渡りであった。島のおばぁたちとのユンタクもそうであるが、清められた神道を御願に向う白装束の神人たちの姿はいいようのない島の宝の一つだね。

プーチ御願の流れ(平成14527日調査メモより)

  
公民館で供え物の準備をする   お宮での御願     お宮の内部(4箇所)

 
ヒジャヤーの御願(7箇所)   ヒジャヤーからノルヤーへ
 

 
  ヌルヤーでの御願(1箇所)        内神ドゥンチ(2箇所

 
 ナカムイの御嶽へ      ナカムイの祠で

  (二手に分かれる。以下は東組)

 
  マーハグチへのお通し   トゥングァヌウガミへのお通し

 
アザギマガイで(三箇所への御願)プトゥキヌメー・ソーヌウタキ・竜宮へお通し

(プトゥキヌメー・ソーヌウタキ・竜宮神)

 
 アガリガーでの祈願      イリガーでの祈願

 (平成14年のプーチ御願の参加者)
          【西 組】        【東 組】
   神 人 ・古宇利春男さん     ・兼次フサ子さん
        ・田港フミさん        ・山川ミツさん
        ・大城ユキミさん      (区長:小浜美千子さん)
        ・山川貞子さん
        (書記:照屋克也さん)  


2002.5.26
 

 古宇利島の祭祀の日程が区長さんから知らされた。マスコミからムシバレーの問い合わせが歴文にあり、日程を知らせしておいた。どの祭祀も見ておきたいのであるが、なかなか都合がつかない。フーチ(プーチ)御願は平成5年6月3日(旧4月14日)に参加したことがある。但し、西側部分だけだった。東側は未調査なので、そこに明日は参加の予定。神人達の御願を静かに眺めておきたいものだ。

 平成5年の参与観察記録に目を通してみた。祭祀は生き物と同様、動くものもあればまた動かない部分もある。9年前と比較してみようと思う。すでに変化したのにスタートの場所がある。名称は同じく今帰仁村農村環境改善サブセンターであるが前の建物はもうない。スタートは新しい農村環境改善サブセンター(公民館)からということになる。それだけでなく、神人の入れ替わりもあろう。静かに参加させてもらうことにする。農村環境改善サブセンターからお宮・お宮の隅・ピジャヤー(比嘉屋)・ヌルヤー・内神殿内・ナカムイまでは、参加者全員でまわる。ナカムイが終わると東組と西組の二手に分かれる。

 平成5年の西組は、ハンジ・チグヌパマ・ウパルマイ・グサブ・ターチバナシ・トゥンジバマの順であった。東組はどこどこをまわるのだろうか。

 このフーチ御願は「津口御願」とも言われ(『古宇利の研究』宮城真治)、「病疫を払う願いとして豚を潰して御願する」という。津口から疫病が入り込むことを防ぐ祈願のようだ。本島側では疫病を払うフーチ(プーチ)御願は今では見られない。村の入口に豚の頭やシーサーなどを置いて魔物が入るのを防ぐのはある。それはプーチ御願の痕跡かもしれない。久し振りの古宇利の祭祀調査となる。参加者いませんか。今日の明日だからね。(但し、祭祀の流れを壊さずマナーの守れる方)


チグヌパマでの御願(平成5年)    ハンジでの御願(平成5年)


2002.5.25(土)
 

過去の写真整理に入っている。メルビン・ハッキス氏のスライド写真(1950年から1967年の間)は一度アルバムに整理したので、今戻す作業である。その後はCDにて保存と再整理ということになる。それ以上に山になっているのは、ここ13年間の調査記録写真である。祭祀や豊年祭り、風景・グスク・墓調査・ハル石・碑文・神アサギ・新城徳祐氏の写真資料・企画展・特別展示などなどである。アルバムの抜けたところは使った写真。それを戻す作業だから大変じゃがな。

 旧羽地村の神アサギをHPで工事中である。ちょうど「山原の神アサギ展」(企画展)を開催した時の写真が出現。学芸員実習をしたメンバーの顔がある。懐かしいな。写真整理の手が止まり、HPに書き込みじゃ。今年の学芸員実習は「墓」をテーマとした展示会を予定。


    
山原の神アサギ神と村人との接点―(1998年)


2002.5.24(金)

 午後から兼次小学校五年生の2クラスの総合的学習。今日は導入部分のテーマ探しである。大きな枠組みは「伝統文化」である。早速テーマを探してもらった。「伝統文化」は何かということよりも、自分はそれを伝統文化にしていきたい。何を伝統文化として言葉に表して友達や回りの人に伝えたいか。あるいは自慢したいかを自分の言葉で表現してみようということになった。顔なじみのメンバーもちらほら。伝統文化、それは目的でなく手段なのだ。それ調べるためにおじいやあばあを訪ねる。そこで学ぶことができれば成功だと思う。

 第二展示室の壁画(14m×3.7m)を使っての伝統文化探しである。今日は一人一つの伝統文化をみつけると41の伝統文化があるということになるでしょう。わたしは、それを伝統文化にしていきたい。そんな視点での学習。自分たちの回りから伝統文化を見つける視点が訓練されていないこともあって、伝統文化らしきものから子供たちに拾ってもらった。伝統文化といえるような説明ができるかな? 一人ひとりが調べたり、聞いたりして、それをみんなに自慢げに報告できたら、それが伝統文化になるんです。していけるんです。ムラ・シマ講座の経験したメンバーは、ばっちし。カーミヌクーをしたことのある四五名の生徒達に実演をしてもらった。それをしっかりやることが伝統文化の継承になるのだと。やっている本人達は、伝統文化は全く別のところにあると思っている。今日は短時間で伝統文化にどんなものがあるか、具体的に拾ってみた。今度は聞いたり、調べたりすることで、しっかりと伝統文化を言葉で表現してくれるでしょう。

  ・豊年祭(キジムナー踊り)
  ・今泊の棒術
  ・神行事(神人・神アサギなど)
  ・獅子舞い
  ・ワラビ細工
  ・今帰仁の方言(奈良時代や平安時代の言葉が使われているんだぞ)
  ・石敢当(渡来文化)
  ・バサーヂン(芭蕉の着物)
  ・カーミヌクー(仲尾次)
  ・集落の福木
  (消えた伝統文化)
  ・馬場での催し物(競馬・原山勝負)
  ・入墨(パヂチ)
  ・カンブー(結髪)
  ・着物
 もっともっとある。それを言葉にして表現し、みんなで共有することで伝統文化になっていく。上に掲げたキーワードをみんなでまとめあげることができればいいね。「五年生の伝統文化」を一年間で築いて欲しいですね。自信をもって。

 
伊江島に今帰仁掟の役職があり、明治十八年の辞令書(『伊江村史』所収)が残っている。今帰仁間切や今帰仁村(ムラ)と関わりがあるのか気になっている。  今帰仁掟は『琉球国由来記』(1713年)に登場してくるので、それ以前から使われていたということだろう。西江大屋子(地頭代)東江大屋子・大城大屋子(三員夫地頭)首里大屋子・大掟・西江掟・東江目指・西江目指・大掟・以下五員赤冠也。謝花掟・上地掟・今帰仁掟・川平掟(四員青冠也)などの役職がある。

 『御当国御高並諸上納里積記』に登場してくる伊江島の村は西江村と東江村と川平村の三ケ村である。上記『琉球国由来記』に出てくる謝花・上地・今帰仁は伊江島にあった村というより役職名に使われた地名だったのであろう。『伊江村史』には北山時代の名残として使われているのではと。
    
   大文子名嘉真三有
 伊江島今帰仁掟申
 付候事
 明治十八年 八月廿二日
  沖縄懸


 
伊江島今帰仁掟の辞令書(明治18年)


2002.5.22(水)
 
歴文の前にあるヤマムム(山桃)の実がボツボツピンクになってきた。今年は例年より実のつきがいいようだ。私達より先に収穫しているのは青鳩である。おそらく夜が明けると同時にヤマムムの木に出勤。そして日が暮れると寝床に帰る。しばらく、このような生活かな?栄養片にならんかな?職員はもっと熟れないと食しないのだ。欲張らず私達のもちゃんと残しておいてくれよな。アカショウビンの声が山に木霊して聞えてくる。そしてヤマムム。植物や動物が季節や時間の流れを伝えてくれる。ガサついた世を背に、タマにはアカショウビンの声に耳を傾け、ヤマムムや青鳩に向って独り言をいうのもいいもんだ。神人ではないが、まさに自然との対話だね。そういう時、山原仙人を名乗りたいもんじゃ。
  気がプリたか!
 
 歴文の前のヤマモモの木    ボツボツ熟れたかな?


2002.5.21(火)
 

今朝は沖永良部の知名小学校のメンバーがやってきた。ここ数年コースに歴文がはいている。もちろん今帰仁グスクもゆく。それには大きなねらいがある。というのは、1609年薩摩の琉球侵攻があった後、1611年に与論島以北を島津領とした。沖永良部の子供達が、かつて琉球国だったのだ。三山鼎立時代は北山王の領域にあったかもしれないのじゃ。生徒達は泊や国頭や勢理客の地名を見つけ、同じ地名があると目を輝かせていた。沖永良部と今帰仁(北山)との関わりや歴史に触れることができたのであればいいですね。

 
2000(平成12)年821日(月)国頭村辺土名での海神祭(ウンザミ)を見る機会があった。下の写真はその時のものである。その日は盆明けの亥の日だったと記憶。かつては伊地・宇良・辺土名の順で拝んでいたという。その日は三ヶ所の神アサギで祭祀を行っていたが、辺土名ノロが回ることはなかった。伊地・宇良の神アサギに神酒や地元の神人二、三名と村人が何名か参加していた。

 辺土名の上島の神アサギに村人とノロの代理(?)や神人(白の神衣装は着ていない)が参加していた。祈りの時勾玉を首からかけなかったので、ノロの代理をしている神人(あるいは簪や勾玉や水晶玉を管理している人)なのだろうか。特にヌミ(弓)などの用具は準備してなかった。大分簡略化されている。

 海神祭が行われる神アサギは、辺土名の上島(古島)集落から更に登ったところにある。登っていくと神アサギの手前に庭(ミャー・広場)があり、神人を除く一般の村人達が男女に分かれて座る。神アサギの中に神衣装をまとった神人達が一段高いところに座る。男性の神役だろうか、一段低い場所から神人一人ひとりに神酒をつぐ。神人の前に紙皿に盛ったご馳走(揚げ豆腐・紅白のカマボコ・天ぷら・昆布・三枚肉)が置かれる。また、アサギナーに座っている村人にもご馳走や神酒が配られる。


 花模様(牡丹?)の簪と二個の勾玉、そして水晶玉(大小と透明のと緑ぼっいのがある)。また簪の竿部分に絹糸の紐がある。勾玉は濃い紺色と茶色ぽっいのと二個あり。


  
辺土名ノロの簪と勾玉・水晶玉        辺土名の神アサギ(準備中


2002.5.19
 

 芸大の学生達10名余が来館。歴文の展示・神人の映画・今帰仁グスク・運天の百按司墓・運天森と為朝碑・大北墓。それから新里家(湧川)・運天原のオランダ墓・喜如嘉のぶながや民俗資料館をゆく。学生達にとって盛りだくさんの中身だったに違いない。入学してまだ間もない。これから何をしていこうかを模索する前の段階かもしれない。これから先、何をしていこうかの手掛かりになれば幸いである。

 ぶながや民俗資料館に「ト はさま原」の原石がある。所蔵者の平良さんに伺うと喜如嘉小学校あたりに「はさま原」があるという。また『喜如嘉誌』に波佐間原は「喜如嘉と謝名城の間。凸凹の多い傾斜地。喜如嘉小学校」とある。「はさま」は迫間・狭間、窪地が多いといわれているように谷間の義のようだ。喜如嘉の「波佐間原」内にファサマ(狭間)・キザハバサマ(喜如嘉狭間)・ウチバサマ(内狭間)・クンジークブ(崩壊してできた窪地)など小地名がある(『喜如嘉誌』)。まさに凸凹地帯である。元文検地の頃には、「はさま原」と呼ばれ原石に刻まれたとみてよさそうである。今帰仁村運天にも「はさま原」があり、細長い谷間の地形になっている。

    
  喜如嘉の原石(ト はさま原)


2002.5.18(土)
 

 今日は勝連町のボランティアガイドの皆さんが来館。今帰仁グスクとその周辺の文化財を視察。その後、歴文の第一展示室の見学。ガイドは手馴れた方々であるが故、やはり真剣そのものである。勝連グスクの案内や解説をなされているであろうが、今帰仁グスクを知ることで勝連グスクのガイドの内容が、さらに深まっていくでしょう。ご苦労様でした。

 
歴史文化センターに「轉籍願」の文書がある。それは那覇士族が今帰仁間切仲尾次村へ寄留してきた時の文書である。このような文書資料は非常に少ない。村に転居する場合の手続きがわかり興味深い。光緒五年は明治12年にあたり廃藩置県の年である。廃藩置県前後に首里那覇などの士族が地方に寄留していった時代である。以下の文書の形式で村内に寄留したことがわかる。

 今帰仁間切(村)で寄留人の多い字(村)は天底(56.6%)・運天(58.3%)・湧川(50.4%)・玉城(45.8%)上運天(30.5%)・勢理客(26.4%)などである。今帰仁間切全体の寄留士族の比率の平均は19.9%である。因みに「転籍願」が出された仲尾次村は19.6%なので平均的な村ということになる。
     
       
轉 籍 願
    無 禄         父那覇西村士族亡長男國吉眞千二男
    家 族               國  吉  眞  益
                     當年六十
幸巳八月十日生
        今帰仁間切平敷村
           平民玉城牛長女
  妻  蒲 戸 
                       當年五十五
丙戌九月二十日生
                        
                  長男  國 吉 真 映
                        當年二十五
丙辰五月五日生
         久米村士族岸本
          恵廸二女真映 
   婦  真 鶴
                       當年二十四
丁巳六月十日生
     光緒五年己卯十一月ヨリ今帰仁間切仲尾次村
     住居仕居候處私儀爾来同村ニ轉籍
     住居仕度奉存候条何卒是迄之通士族籍
ニテ
     被差免被下度別紙財産取調書 相副此段
                                  奉願候也

                今帰仁間切仲尾次村住居士族
     明治十三年辰六月六日出ル    國 吉 真 益

     記
    建家二間角萓薺二棟
     牛一疋
     豚一疋
     野羊三疋
   右財産取調書如斯御座候也
   明治十三年辰六月六日出ル 
今帰仁間切仲尾次村住居士族
                     國 吉 眞 益 印


    「転籍願」の文書(明治13年)


2002.5..16(木)
 

このごろ会議や打ち合わせの業務が多い。それも頭が痛いことだらけ。それは仕事の内。しっかりとやることにしている。避けて通ることはできませんから。さて、歴文の業務も楽しく片付けねば。山積した仕事を片付けましょう。ということで、今日の書き込みはナシじゃ。

 大潮の時の干潮時の今帰仁グスク麓の今泊のピシ(干瀬)の写真でも入れておきましょう(この写真は数年前)。今年潮干狩り?で取ってきたサザエを沢山食べました。職員におすそ分けしたら、サザエの中にシャコガイが一個あったそうだ。わたしのものだと、独り占めにしたという。そのシャコガイにあたって、翌日は青白い顔色で出勤。そういうとき、あげた方も貰った方もどっちも困ってしまう。大事に至らずホッですね。


    
今泊の海岸、後方にみえるのが伊江島


2002.5.14(火)

 急きょ、歴文の13年間の動きについてまとめなければならなくなった。ああ、過去の13年間どれだけ頭に残っていることやら。『なきじん研究』や「すくみち」やノートなど。それと公にしたものなどを手掛かりにまとめじゃ。明日までとは!!

 それを神頼みしてもな。朝起きたらPCに原稿が出来上がってはいていたりしてね(この画面を読んだ方が徹夜して書いてくれたりして。ああ、有り難や。おせっかいやくなといわれるのがオチなのだ)。そんなバカな夢をみようとしている(ひとり言)。

 そういう時に限って、三つ、四つの業務がはいてくる。ハイ、ハイと受けているのは本人だからどうにもならんのじゃ。午前中、大事な話合い。午後から諸志の老人会が30名ほどやってきて、自分たちにムラの歴史を学ぶ。それで終わろうと思っていたら、第二、第三展示室まで。そこまで行かんと終わらんのじゃと。第二展示室は諸志の写真や資料の展示がしてあるので、それは大賑わい。70歳過ぎた方々が多いのあるが、「ワシの兄貴の写真がある。写真とっていいか」とくる。「まとめて配りましょうね」と返事。それで終わりかと思ったら、「今帰仁グスクまで行こう」とお誘い。グスクまで登ると老体の私の身が危ない。多忙を理由(ほんとのこと)にお断りした。

 明日は教頭研(教頭先生方の研修会)がある。主事の方から明日の資料の督促もあったが、なにせあれこれ頭も手も回らないのである。これから3000字の原稿と研修会の資料を準備する。諸志の方々に沖縄の場合は火の神・水の神・五穀豊穣・ムラの繁盛・航海安全・ニライカナイ・竜宮・千手観音・関羽・福禄寿・七福神・カニマン・鍛冶屋の神・位牌など「何でも神様ですよ」と講話をしたばっかり。やはり神頼みしかないか!!!


2002.5.12
 

明日は休館なり。 
 1日中、原稿書きなり。すぐに次のがやってくる。ああ、しんど。片付ければ、楽しみがやってくる。束の間の休息にするぞ!


2002.5.11(土)

 ムラ・シマ講座アップしました。今日の様子がわかります。40名近い参加者。来月から多くなりそうな気配。幼稚園から90歳の幅広い年齢層と広範囲に渡る参加者。

 下の二枚は「中城ノロ」宛の辞令書である。左が「万暦三十三年九月十八日」((1605年)で古琉球の辞令書(『沖縄県国頭郡志』所収)、そして右が「隆武八年二月五日」(1652年)近世の辞令書である(『比嘉春潮全集』第一巻所収)。現物は確認されていませんが、興味深いので紹介します(他に11点あり)。
 今帰仁間切(本部含む)に関わる辞令書は13点確認されている。その内現存するのは3点のみ。下の二枚は写真に収められていて現物がイメージできる(写りはかんばしくないが)。

 
 今帰仁間切中城ノロ職叙任辞令書  今帰仁間切中城ノロ職叙任辞令書

今帰仁間切中城ノロ職叙任辞令書(1605年)
  しよりの御ミ事
    ミやきせんまきりの
    中くすくのろハ
       
もとののろのくわ
    一人まうしに
    たまわり申候
  しよりよりまうしが方へまゐる
  萬暦三十三年九月十八日

今帰仁間切中城ノロ職叙任辞令書(1652年)
  首里乃御美事
    今帰仁間切之
    中城のろハ
       
前ののろノ子
    一人加那に
    たまわり申候
  隆武八年二月五日

 辞令書の形式からすると前者は古琉球の辞令書、後者は近世へ移る過渡期の辞令書である。文章は日本文(候文)、そして年号は中国である。それは明治の廃藩置県まで踏襲される(一時期日本年号を使ったことがある。寛文三年など)。、琉球(沖縄)の立場を象徴している。

 「隆武八年」の年号であるが、1644年に明朝が滅び清朝が建国されるが、明の遺臣達が清朝に抵抗し南明政権を樹立したため政情が不安定あった。明と清の交代期の琉球の中国の実情を十分把握できなかったこと、どっちに着くか?結果的に南明政権につき弘光と隆武の年号を琉球で使ったのである。明と清の交代期に琉球がとった立場が隆武の年号から読み取ることができる。古琉球と過渡期の辞令書の比較、ノロの継承、今帰仁が「ミやきせん」と表記されるなど興味が尽きない。ここでは略す。     


2002.5.10(金)

 
 
     ムラ・シマ講座始まり はじまり 

 徹夜の仕事をすませ、頭の中はハイスピードで回転中。今朝30分ほどの仮眠。その後、ずっと動いています。お陰で明日の予告まで、早々と書き込んでしまいました(夕方の7時半)。

 10期ムラ・シマ講座が始まります。1回目は参加者の顔合わせもあるので、館内で講座の案内をします。早速、今帰仁グスクの周辺から調査に入ります。それも、一番難しくわけのわからんところからスタートです。

 まずは用語ですね。今帰仁? 間切? ムラ?
山原? 野面積み? 相方積み? 布積み グスク? ウタキ? 神アサギ 火の神? 神様? ましてや調査ポイントの名称そのものも、どこの言葉? 奈良時代や平安時代など教科書でならったことは一言も出てもこない! どういうこっちゃ? しかし、わからないのであるが、面白いのじゃ。今日は旧暦の328日、今帰仁監守五世克祉が亡くなった日なのです。ウートゥトゥ。薩摩軍の今帰仁城の焼き討ちと関係あるにちがいない。昨日の27日が城内の焼き討ちがあった日だから。明日の講座は、歴史を体験する場面になるのかも。明日の参加者は、攻める方か、攻められる方か。古宇利島からフイ掟も参加するようだから、薩摩の武士になった積もりで攻めの体で参加されたし。克祉(今帰仁按司)は死亡する筋書きだから、安心して攻めて来られよ!中山や南山からの参加者もあり。応援されたし。

 今年の講座はスタートから、なかなか興味深いものがあるわい!hahaha…
 今帰仁グスクの城壁についても学びますよ。城壁が単なる防御的な施設ではないということを実感してもらいます。

1回目の調査ポイント
  ・阿応理屋恵(アオリヤエ)殿内の祠(ホコラ)
  ・今帰仁ノロ殿内(トンチ)の祠(ホコラ)
  ・古宇利(フイ)殿内の祠(ホコラ)
  ・レコーラウーニ(今帰仁ウーニと本部ウーニ)
  ・今帰仁グスクの石垣
  ・今帰仁グスクの中

 
調査ポイントは6ケ所あげてあるが、全て記録するわけではありませんよ。最初から難しい場所のようだが。要は400年あるいは600年前の人達の時代に入いていける感性と寛容さが大事なのです。知識の議論は二の次、三の次なのじゃ。特に大人の参加者は。それに気づいていただければ幸いです。


    今帰仁グスクの石積み      知念グスクの石積み


2002.5.9(木)
 

 明日の原稿出しで、あれもこれもと頭や手が回らず。ちょっと頭休めにちょっこと書き込み。と言ってもこれだけ。今日は徹夜状態かな!!!ああ、神様力をお貸し下さい。そういうときは神頼みが一番。10時頃の一服で、また書き込めたら。約束はやめておきましょう。では。では。


2002.5.8(水)
 

連休?開け。休みあったけ。あったのであるが、寝疲れで体調を崩している。さあ、一つひとつ片付けることで元気を取り戻しましょうかね。

 これから「運天の字誌」。勉強会?なり。今回は調査に入る準備ということで、その調整。十数名の方々の名前をあげ、今月末にゆるやかな聞き取り調査にはいる予定。それから個々の調査へと進めていく。聞く内容は字誌に関わる戦前のこと・戦争・言葉・通過儀礼・祭祀など幅広い範囲に及ぶ。ここではムラ・シマの方々の知識を網羅しようというものではなく、これまで体験してきたことを記録していくことをねらいとする(簡単なようで非常に難しい)。ということで、今回の字誌の集りは次回の調査についてでした。今回の資料準備は、 
 ・郷友会名簿
 ・ブラジル移民名簿と紹介      


2002.5.5

 4日は芸大のメンバーと図像の調査を行った。今帰仁村兼次の兼次上殿内、名護市(旧羽地村の仲尾)の我部祖河殿内、さらに真喜屋の「ないくみ殿内」(内神殿内?)の三軒。

 兼次上殿内(上原家)には福録寿の図 観音菩薩の図 ウナイ・ウィキの図 関羽の図 鍛冶屋の図の5点が並んである。いろいろな方々が訪ねてくるので説明のために掲げてある。戦前は巻物の図があったが、戦後書き換えた。現在のは13年前(午年)に上原さんが記憶をたどって一ヶ月位かけて画用紙書いたものだという(ラミネートされている)。右手はハブにやられおり、しびれを押して描いた(神の成したる業と思っているようだ)。説明の中に琉球の天孫氏・クボウヌウタキ・プトゥキヌイピャ・金満(カニマン)などの用語が出てくる。琉球の天孫氏にまつわる話に五つの図を当てはめて解釈しているようだ。

 我部祖河殿内は旧羽地村仲尾にあり勘定納港があった村(ムラ)である。現在空家になっていて門中で管理している。千手観音の図と鍛冶屋の図、そして関羽の図がある。鍛冶屋の図の前にフイゴや金槌などの鍛冶屋の道具が置かれている。雍正や乾隆などの年号の入った位牌がある(上部横35.227.5)㎝、縦2818.4)㎝。羽地間切の夫地頭職を輩出している旧家である。

 名護市真喜屋の神アサギの近くにある「ないくみ殿内」(内神殿内?)にある図像。「今帰仁城北山 長男羽地当名」と書かれている。キャンバスに油絵の具で描かれ、村芝居の組踊などに登場する大和武士のようだ。図像についての聞き取りは未調査(詳細は図像研究会で報告)。(この調査は芸大中心の沖縄の図像研究会の尾形・小林・花城・桂さん、そして歴文仲原が加わる)。ご苦労様でした。

 
  古河知殿内の位牌(仲尾)     今帰仁城北山長男
                           羽地当名の図像(真喜屋)


2002.5.2(木)
 

 昨日からHPの更新ができずにいる。インターネットサービス会社が工事中。情報を作る立場から迷惑なこっちゃ。電気や電話や水道と同様な配慮が必要。兼次小6年生達た歴史の勉強ということで、テーマ探しにやってきた。これまで何度も講座をやっているが積み上げができているのかな?どうも、その場限りの知識としての勉強になっているようだ。日々、今帰仁グスクを中心とした歴史を学んでいるのだが、その風土から産まれた人物、風土は人をつくるという意識を植付けていく必要がありそうだ。

 12
13世紀頃から沖縄本島が北山・中山・南山と三つの国があり、北山の拠点となったのが今帰仁グスク。中国を中心とした国々と交易をし、海外から文物をとり入れるスケールの大きさを実感させる学習を心がけているのだが・・・・・・

 もう一つ歴史の舞台となる運天港がある。そこにコバチシの大木や大和人の墓塔が二基などがある。このようなコバテイシが何本もあり、その下に国頭・大宜味・今帰仁・本部の四間切の仕上世米が集積され積み出されたという。運天港には大和人の往来があり、そこで死去した人の墓塔であろう。墓塔に安政二年(1855)と明和五年(1768)の日本年号が刻まれ一人は種子島の宮浦の人である。


   
運天の大和人墓(二基)              運天のコバテイシ


2002.5.1(水)

 今年もアカショウビンが鳴く季節になりました。その鳴き声が聞えるといろんなことが思い出される。と同時に「ようやってこれたな」と、体力の衰えを実感している。そうは、言っておれない状況である。回りは「よろけているぞ!!」と。しかし本人は「よろけたんじゃない。バチがあたったのだ」といたって強気。ただ今、右腕捻挫中。何故かは言えぬ。あれこれと連休中に片付けてしまおう。今、担いでいるものを放り投げて、晴れ晴れと資料調査に出たいもんだ。

 雨の少ない4月でした。草の伸びはこれまでゆっくり。しかし、この季節になると歴文やグスク周辺の草刈り作業が始まる。痛めた手が、再び痛みはじめた。ボツボツ「ムラ・シマ講座」の申し込みがある。窓口で申し込みのやり取りを聞いていると皆楽しみにしているようだ。期待に沿った中身にして行きたいもんだ。5月がスタートした。どんな月になるか!あれやこれやと、締め切り原稿がいくつもやってきているが、今月もマイペースじゃ。